大木金太郎
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逸話
- 豊登、猪木の日本プロレス離脱により、馬場に次ぐ二番手の地位を築いていた大木であったが、猪木の日プロ復帰、坂口の入団などにより中堅の地位に甘んじていた1968年1月には、国際プロレス(当時はTBSプロレス)への移籍話が取り沙汰された。TBSプロレスは旗揚げシリーズで、エース候補として売り出しを図ったグレート草津、サンダー杉山がことごとくタイトルマッチ(TWWA世界ヘビー級選手権)でルー・テーズに敗れ、当初は看板選手として売り出す考えのなかった豊登まで駆り出されるなど、日本人陣営が手薄である事は明白であった。そこで、当時TBSプロレスのブッカーであったグレート東郷が大木に接触し、TBSプロレスへの移籍に一旦は合意。大木は一時は日プロに辞表を提出、TBSプロレスの興行が行われる予定の仙台へ来場したが、日プロ後援者らの介入で直前でこれを阻止され、大木はTBSへの移籍を断念する結果となった。この一件が後にユセフ・トルコによる東郷への暴行事件の伏線の一つとなった。
- 得意技に頭突きを選んだ理由としては、当時朝鮮系は石頭というステレオタイプ的なイメージから力道山が「お前は韓国人だから頭を鍛えなさい」といわれたことに依拠する。大木いわく、頭突きの鍛錬方法はゴルフクラブのドライバーで力道山が頭部を殴っていたという。映画力道山での初登場シーンは掛け声とともに鉄柱に突進するシーンである
- 日本プロレスの崩壊後、韓国を拠点にしつつ、新日本・全日本の両団体に参戦していた大木であったが、1980年2月には『国際プロレスアワー』の視聴率の低迷にあえぐ東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に乞われる形で、国際プロレスに入団[26]し、2月シリーズである「'80スーパー・ファイト・シリーズ」から参戦した。しかし、国際プロレスの社長であった吉原功は全く関知しておらず、国際側と12チャンネル側の関係がさらにギクシャクする形となったことは否定できなかった。結局、大木入団後における『国際プロレスアワー』の視聴率は低下し(開始当初からのディレクターが人事異動により抜けた影響もある)、大木自身も11月1日開幕の「'80デビリッシュ・ファイト・シリーズ」開催中の同年11月8日に退団[29](退団後の「'81新春パイオニア・シリーズ」のポスターにも大木の写真が掲載されていた)。翌年には、国際プロレスは12チャンネルから放映を打ち切られて崩壊した。
- 1968年12月1日、宮城県スポーツセンター大会で、大木は左耳の半分が削がれ、大流血する壮絶なリング・アクシデントを経験している。この試合では大木は猪木とタッグを組み、ブルート・バーナード&ロニー・メインと対戦。大木の執拗な挑発に対してバーナードは角材を持ち出した。大木はその角材を自慢の石頭で受けようとし、頭を固定するため軽く首を振った瞬間に、バーナードが振り下ろした角材が左耳を直撃。上半身を鮮血で染めるほどの大流血となった。試合後、大木は病院に直行し14針縫合したが、医師の話では「あと2センチほどで左耳は完全に削ぎ落ちていた」というほどの大怪我であった。同様なケースとして、1959年にキラー・コワルスキーがユーコン・エリックの左耳を削ぎ落としてしまった事故が挙げられる。
- 1970年代後半に交通事故により重傷を負い、一命は取り留めたものの後遺症が残った。頭蓋骨の中に食い込んだガラスの破片は手術を重ねても完全に取り除くことが出来ず、時折激しい痛みに襲われたという。それでも復帰後のリングでは得意の頭突きを放ち会場を沸かせたが、頭蓋骨に食い込んだガラスによって皮膚が破れ、ほぼ確実に流血するようになってしまった。関係者は頭突きの使用を控えるよう進言したが、「使うと痛いからという理由で技を封印したとなれば、試合を見に来てくれるお客(ファン)は失望する」として頑として聞き入れず、頭突きにこだわり続けた。
- 少年時代に愛犬の珍島犬を日本軍の防寒具用に徴用された。愛犬は一旦は脱走して戻ってきたが連れ戻された。大木は守ってあげられなかった後悔の念から1994年に愛犬の石碑を建て、碑文に「二度とこの地で草一本犬一匹も外勢の犠牲となることがないように願う」などを記した[40]。
- 当時の韓国大統領であった朴正煕は大木のファンでもあり、大木の興行面でも支援を行っていたとされる。大木は朴から願いを問われた際に「故郷に電気を通して欲しい」と請願したことから、他の離島に先んじて1968年に居金島に電気が開通している[41]。しかし、朴の周辺が北朝鮮による暗殺計画などで周辺が慌ただしくなり、興行面を支援する余裕がなくなっていったとされ、朴正煕暗殺事件の発生で、政府により大木に対して行われていた多額の補助金捻出が打ち切られてしまった[20]。
- 2003年3月6日に高陽市一山チョンア公園で行われた生誕イベントでデザイナーのアンドレ・キムからガウンが贈呈された。イベントにはアブドーラ・ザ・ブッチャーも出席した[42]。
- 2011年12月17日、出生地の居金島に記念館を併設したキム・イル記念体育館が開館し、銅像の除幕式も行われた[43][44]。
注釈
- ^ 新日本とはシリーズに参戦した外国人選手をそのまま自身のプロモートする韓国の興行に招聘する提携がされていたが、それが打ち切られたことも遠因にあった[20]。
- ^ 全日本参戦のオファーをかけたのは、対猪木戦で評価を上げたことに目を付けた馬場の意を受けて、グレート小鹿が中心となって行ったとされている[20]。
- ^ 国際との契約が切れたことから、事実上馬場のオファーに応えた形であり、その条件として大木のインター王座と馬場の保持し封印していたアジアヘビー級王座の交換(さらに日本テレビから金銭を大木に支払う)と6月からの全日本への参戦が入っていたとされる。菊池孝によれば、大木はこの時期に子飼いの選手が大量に離脱したため自主興行が打てなくなっていたことに加え、自身が経営していた海産物業が不渡りを出してしまい、財政面で窮地に立たされていたことも背景にあったという[20]。
- ^ 引退セレモニーが始まる前には馬場が東京ドームへ現れ、大木を労うと共にお互いの近況などを語り合っていた[20]。
- ^ この脳血管疾患はいわゆるパンチドランカーの症状であったとされる。
出典
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- ^ 박치기왕 임종 이틀 전…“내 머릿속 큰 돌멩이 좀 빼줘”中央サンデー 2018.01.28
- ^ '박치기왕' 김일의 고향 전남 고흥 거금도ソウル新聞 2012-08-22
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- ^ “◆故金一(キム・イル)氏(プロレスラー)の記念体育館開館◆ | 鳳仙花 | ニュース | 東洋経済日報”. www.toyo-keizai.co.jp. 2023年6月25日閲覧。
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