大奥 沿革

大奥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 15:27 UTC 版)

沿革

呼称の変化

武家の邸宅において、儀礼や政治の場である「表」と日常生活の場である「奥」との区分は近世以前より存在していた[注釈 2]。しかし大奥という呼称は江戸城に初めから存在していた訳ではない。元和4年(1618年)の「壁書」や元和9年(1623年)の「御台所法度」では、「奥方」や「奥」といった呼称が用いられている。本丸に関する最古の図面である寛永14年(1637年)の「御本丸御奥方御絵図」では「御奥方」と呼ばれている。4代将軍・徳川家綱の時代に「大奥」という呼称が登場するようになり、5代将軍・徳川綱吉の時代に「大奥」が定着するようになる。これは貞享元年(1684年)に御座之間近くで大老堀田正俊若年寄稲葉正休に殺害されたことで、表と奥の境目が明確化したことによると考えられている[5]

規則の変化

大奥及び奥女中に対する規則は「壁書」以降、将軍の代替わりごとに確認され改訂されてきたと考えられている[6]。「壁書」で主に規定されていたのは大奥への出入りに関することである。男性の出入りが明確に禁止されているのは、大奥全体ではなく女中たちの宿舎である長局より奥であった[7]。5年後の「御台所法度」では、医師や大名の使者等の出入りについての記述が加えられた。寛文10年(1670年)には女中たちが守るべき「女中法度」、老中に対する「老中連署条目」が出されている。享保6年(1721年)の「女中法度」では、文通や宿下がり(一時帰宅)で交際が許される範囲やぜいたくの禁止等についての条文が加えられた[8]

構造の変化

大奥の構造は火災による焼失・再建の度に変化していった。綱吉の時代までの特徴は、老女や側室の居所が御殿向に点在していたことである。6代将軍徳川家宣の時代以降、側室は女中として長局に居住するようになる。これにより御台所と側室の立場の違いが明確化した。9代将軍徳川家重の時代に御鈴廊下が2本になったと考えられている[9]。本丸御殿は計5回焼失しており、文久3年(1863年)に焼失してからは再建されなかった。

幕末の政治問題による変化と大奥の終焉

幕末期の大奥には、表の政治問題が波及するようになる。弘化3年(1846年)に水戸藩前藩主徳川斉昭琉球蝦夷地に関して12代将軍徳川家慶に訴えかけようとして、上臈御年寄姉小路に書を送っている。その後、安政期の将軍継嗣問題では、南紀派と一橋派が大奥工作を行って政争を展開した。南紀派は13代将軍徳川家定の生母本寿院や上臈御年寄歌橋を味方に付け、一橋派は正室篤姫を通じて将軍に働きかけようとした。徳川家茂が14代将軍に就いてからは、大老井伊直弼らによって朝幕関係修復のため皇女降嫁が画策される[10]

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜が敗北し、新政府が慶喜の追討令を出した後、天璋院と静寛院宮はそれぞれ薩摩藩と朝廷に対して嘆願書を送っている[注釈 3][注釈 4]。 その後、大奥は幕府始まって以来初めて徳川家中へ向けた御触を発令し、恭順を徹底するよう命じた。同年4月、江戸城開城に先立って静寛院宮と家茂生母実成院は清水邸へ、天璋院と本寿院は一橋邸へ退去した[11][12]


注釈

  1. ^ 東海道二川宿の「御休泊記録」には、薩摩藩の奥女中を「薩州奥女中」や「薩州大奥女中」などと記している。一説によれば、中奥あるいはそれに類する空間が存在する場合、それと区分するために「大奥」という名称が用いられたと唱えられている。
  2. ^ 表と奥の概念は公家の館が規範になっている。儀礼や対面など〈〉の場である寝殿が「表」、日常生活である〈〉の場としての常御殿が「奥」に対応する。この区分は足利将軍の邸宅である花の御所や豊臣秀吉の大坂城で確認されている[4]
  3. ^ 静寛院宮の使者として京都に派遣された土御門藤子は、謝罪の実があるならば徳川家を存続させる可能性もあるという朝廷の内意を引き出している。
  4. ^ 天璋院の嘆願書を受け取った西郷隆盛は、嘆願を受け入れる旨の連絡を天璋院に入れている。
  5. ^ 文久3年(1863年)の火災で本丸は焼失して再建されなかったため、明治維新まで西丸が本丸の代わりとして用いられた。大奥も西丸に増築されたという。
  6. ^ 天璋院は、家茂将軍就任後も本丸御殿に留まり、和宮降嫁後もしばらくは本丸御殿に住んでいたと考えられる。
  7. ^ これらの呼称は時代によって異なる。
  8. ^ 文書における桂昌院の名前は御台所・鷹司信子よりも先に銘記されており、官位面でも信子より上であった。
  9. ^ 「側室」は武家諸法度で大名の一夫一妻制が定められた後に成立した概念で、複数の妻が公認されていた家康の時代に遡らせるのは不適切とする福田千鶴の説もある(家康の側室とされているうちの何人かは正室と同格である「別妻」であった可能性が高い)。
  10. ^ 自身の生前には正式な側室として認められていない。
  11. ^ もっとも、江戸城以外の奥向には取締という役名が存在した可能性がある。畑尚子著『徳川政権下の大奥と奥女中』では、水野家老女・千代山が万延元年に奥向取締になったことが述べられている[14]
  12. ^ 姉小路については、将軍家慶とのただならぬ関係を主張する説も存在している[要出典]
  13. ^ このことは、大奥老女の人事異動が将軍の代替わりにほとんど影響されていないことからも明らかである。

出典

  1. ^ 将軍家のプライベートサロン!江戸時代の大奥の構造はどのようになっていたの?”. Japaaan. LINE NEWS (2019年7月15日). 2019年7月15日閲覧。
  2. ^ 徳川「大奥」事典, p. 4.
  3. ^ 畑尚子 2009, pp. 21–23.
  4. ^ 新人物往来社『歴史読本』2011年3月号P140-146「信長・秀吉の奥と将軍の大奥」
  5. ^ 徳川「大奥」事典, pp. 7–8.
  6. ^ 新人物往来社『歴史読本』2011年3月号 P128-138「江戸城大奥の基礎はいつ作られたのか」
  7. ^ 知らなかった!? 大奥の秘密, p. 26.
  8. ^ 徳川「大奥」事典, pp. 9–10.
  9. ^ 畑尚子 2009, pp. 31–32.
  10. ^ 徳川「大奥」事典, pp. 95–97.
  11. ^ 徳川「大奥」事典, p. 101.
  12. ^ 畑尚子 2009, p. 183.
  13. ^ 江戸城 大奥御殿向惣絵図(色彩図)”. 2011年2月19日閲覧。日本建築学会図書館・妻木文庫蔵。
  14. ^ 畑尚子 2009, p. 221.
  15. ^ 徳川「大奥」事典, pp. 116–117.
  16. ^ 『鶴姫君様御婚礼御用』『鶴姫様御婚礼書物』(国立公文書館所蔵)






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