吉田町 (愛媛県)
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行政
平成の市町村合併
吉田町は、町立病院を抱え、南予用水事業関係の負担が大きく、財政状況は逼迫し、市町村合併による効率化が避けられない状況であった。このため、宇和島市との合併は最も現実的な選択であった。
2005年(平成17年)8月1日、宇和島市、三間町、津島町と対等合併、新たに宇和島市の一部となった。なお、愛媛県内の平成期の合併としては最後であった(2010年8月現在)。
経済・産業
みかんと水産の町である。
- 農業
- みかん王国愛媛の中でも、八幡浜・西宇和地域と並ぶ屈指のみかん産地であり、愛媛みかんの発祥地でもある。
- みかんの栽培は吉田町内で明治10年頃から始まり、同20年代には定着していったとされる。その後も次第にみかん畑が広がり、昭和初期には、さらに拍車がかかった。太平洋戦争の前後には苦難の時代もあったが、昭和30年代には吉田のみかんは黄金時代を迎え、立間駅から出発する「みかん列車」が季節の便りとして、新聞紙上に登場するのが年中行事となっていた。
- しかし、1967年(昭和42年)の大旱魃は乗り切ったが、1970年代は全国的に過剰生産に陥った。生産技術の向上、品質改良に努めたものの、「食」が多様化し、安価な外国産フルーツが店頭に並ぶなか、必需品ではないみかんは消費量減退・生産者価格の低迷に悩まされ続けている。吉田のみかんは「宇和青果」のブランドで出荷していたが、かつてのブランド力は衰え、苦境に立たされている。
- 愛媛県の「みかん研究所」の新築が新たな時代を切り開く、一つのきっかけとなることが期待されている。
- 水産業
- 吉田町における水産業は、魚類と真珠の養殖に特化している。
- 魚類養殖のうち、ハマチ類養殖は、1964年(昭和39年)に町内の立目地区で始まった。沿岸漁業が次第に衰退していった時期であり、漁業者に新たな道を切り開く結果となった。吉田湾内は波静かで養殖に適していたため、すぐさま広まっていった。
- 真珠は、1957年(昭和32年)、町内の花組で始まったとされる。吉田湾は、水深もあり湾内の潮流は海域を常に新鮮に保たれ、水温も適し、プランクトンも豊富である。加えて、背後の山々は石灰岩質で、山から流れ込む水により、独特の水質が保たれているのも一因とされる。湾が切れ込み、奥まっているため台風の直撃も比較的少ないことも好材料であった。
- 商業
- 町中心部、国道56号から東一帯に商店街を形成し、役場、病院、金融機関もこの地区にあり、歩いて移動できる範囲に生活利便施設は集中している。しかしながら、駐車場や商品品揃えに面で勝る宇和島市にかなり流れている。宇和島市の北部、市街地入り口に大規模スーパーがあり、そちらに購買力は吸引されている。吉田町の商店街内にも地元資本のスーパーマーケットがあるが、店舗面積は小さく、次第に地元高齢者向けの品揃えに移行しつつある。
- 宇和町卯之町(現: 西予市)にも商業集積があるため、こちらにも流出。宇和島と卯之町と両方から挟み撃ちとなり、引っぱられている状態にある。
- 将来的には、松山自動車道が宇和島まで開通すると、素通りに近い状態が強まると懸念される。一方では、町内の通行量が減って、高齢の歩行者にも安心して横断できるという見方もある。
教育
- 高等学校
- 中学校
- 小学校
- 吉田町立吉田小学校
- 宇和島市立奥南小学校
- 宇和島市立喜佐方小学校
- 宇和島市立立間小学校
- 宇和島市立玉津小学校
- 社会教育
- 町立図書館
- 公民館6、中央公民館は役場横
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、129頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ “地域づくり活動情報”. 宇和島市 (2015年7月1日). 2019年4月26日閲覧。
- ^ “吉田町夏祭り”. 愛媛県公式観光サイト. 2019年4月26日閲覧。
- ^ “ソウルオリンピック出場”. 宇和島市立伊達博物館 (2020年6月16日). 2022年5月8日閲覧。
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