南満洲鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 22:01 UTC 版)
鉄道事業
代表的な列車
- 特急「あじあ」 大連 - 新京 - 哈爾濱
- 急行「はと」 大連 - 新京
- 急行「ひかり[122]」 釜山 - 新京
- 急行「のぞみ[123]」 釜山 - 新京
- 急行「大陸[124]」 釜山 - 奉天 - 北京
- 急行「興亜[125]」 釜山 - 奉天 - 北京
- 急行「あさひ[126]」 羅津 - 新京
特急「あじあ」
1934年(康徳元年/昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特別急行「あじあ」(中国人向け案内には「亜細亜」表記)が登場した[108]。最高速度は110 km/h、表定速度は82.5 km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8 km/hを上回った[108]。大連 - 新京(長春)間701.4キロメートルを8時間半でむすび、従来の同区間を走る急行「はと」の所要時間約10時間半を2時間も短縮させた[108]。6両の客車を表定時速80キロ以上で走る「あじあ」は当時の代表的な超高速列車であり、世界的に注目を浴びた[108]。高速運転を可能にした理由の一つが、流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシナ型」と呼ばれる車両によって牽引されたことである[108]。客車は全車両空調装置完備であり、このような列車は世界で初めてであった[108]。1935年(康徳2年/昭和10年)9月には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された[108]。1943年(康徳10年/昭和18年)2月、戦局の悪化にともない突然運休し、そのまま姿を消した[108]。
急行「はと」
1932年(大同元年/昭和7年)10月、大連 - 長春間に走っていた直通急行列車に「はと」の愛称を付けた[127]。満鉄初の愛称付き急行であった[127]。1934年の「あじあ」登場後は、大連・新京出発の午前中のダイヤを「あじあ」に譲り、正午始発・深夜終着の運行ダイヤとなった[127]。大連発の「あじあ」は、内地からの大連航路に接続していたものの天候不順などを理由とする大連への延着がしばしばあったので、定刻通り出発すると乗り換え客を積み残すことがあった[127]。そのため、1935年9月には「はと」の大連出発時刻が改正され、積み残し客救済の役割を担うことになった[127]。超高速列車ではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」の方が乗り心地がよいという旅客もあったほどで、食堂車も「あじあ」より割安感があった[127]。1934年以降は「パシナ型」を「あじあ」と共用することとなって「はと」そのものも高速化が図られた[127]。
経営路線
鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連・旅順間の満鉄本線と安奉線のほかに、満洲国が1935年(康徳2年/昭和10年)にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・中東鉄道)をはじめとする満洲国国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた[110]。これに対応するため、満鉄は1936年(康徳3年/昭和11年)、奉天に鉄道総局を設置した[110]。それにともない、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった[110]。1943年(康徳10年/昭和18年)には鉄道総局そのものが廃止され、その業務は満鉄本社に継承された[110]。
以下は、1945年(康徳12年/昭和20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)である[128]。
凡例 : [貨] 貨物線
社線
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
連京線 | 大連 - 新京 | 701.4 | 本線 (開業 - 1921年7月20日) 満洲本線 ( - 1925年3月31日) 連長線 ( - 1932年10月31日) |
大連埠頭 - 沙河口 [貨] | 6.9 | 通称「埠頭線」 | |
大連 - 吾妻 [貨] | 2.9 | 通称「吾妻線」 | |
安奉線 | 安東 - 蘇家屯 | 260.2 | |
入船線 [貨] | 沙河口 - 入船埠頭 | 5.8 | |
旅順線 | 周水子 - 旅順 | 50.8 | |
柳樹屯線 | 大房身 - 柳樹屯 | 5.8 | 休止線 |
甘井子線 [貨] | 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 | 11.9 | |
金城線 | 金州 - 城子疃 | 102.1 | |
営口線 | 大石橋 - 営口 | 22.4 | |
煙台炭礦線 | 煙台 - 煙台炭礦 | 15.6 | 非営業線 |
撫順線 | 蘇家屯 - 撫順 | 52.9 | |
渾楡連絡線 [貨] | 渾河 - 楡樹台 | 4.1 |
北鮮線
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
北鮮西部線 | 上三峰 - 南陽 | 36.0 | 図們線(朝鮮総督府鉄道) |
北鮮東部線 | 図們 - 雄基 | 147.3 | 図們線(朝鮮総督府鉄道) |
雄羅線 | 雄基 - 羅津埠頭 | 18.2 | |
南羅津線 [貨] | 羅津 - 南羅津 | 3.0 |
国線
満洲国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日 - )
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
奉山線(現瀋山線) | 奉天 - 山海関 | 419.6 | 奉山鉄路 |
奉裕連絡線 [貨] | 奉天 - 裕国 | 17.5 | |
于洪連絡線 [貨] | 于洪信号場 - 大成信号場 | 4.6 | |
皇姑屯連絡線 [貨] | 皇姑屯 - 北奉天 | 2.8 | |
高新線 | 高台山 - 新立屯 | 60.6 | |
大鄭線 | 大虎山 - 鄭家屯 | 366.2 | 奉山鉄路(大虎山-通遼) 四洮鉄路(通遼-鄭家屯) |
新義線 | 新立屯 - 義県 | 131.5 | |
河北線 | 溝幇子 - 河北 | 91.1 | 奉山鉄路 |
錦古線 | 錦県 - 古北口 | 542.3 | 奉山鉄路(錦県-口北営子) |
北票線 | 金嶺寺 - 北票 | 17.9 | 奉山鉄路 |
葉峰線 | 葉柏寿 - 赤峰 | 146.9 | |
壺蘆島線 | 錦西 - 壺蘆島埠頭 | 12.1 | 奉山鉄路 |
奉吉線 | 奉天 - 吉林 | 447.4 | 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮) 吉海鉄路(朝陽鎮-吉林) |
瀋陽連絡線 [貨] | 奉天 - 瀋陽 | 10.7 | |
将軍堡連絡線 [貨] | 撫順 - 将軍堡信号場 | 3.6 | |
撫順城連絡線 [貨] | 撫順 - 撫順城 | 4.5 | |
梅輯線 | 梅河口 - 満浦 | 255.5 | |
新通化線 | 通化 - 新通化 | 4.2 | |
大栗子線 | 鴨園 - 大栗子 | 112.3 | |
平梅線 | 四平 - 蓮河 | 149.2 | 瀋海鉄路(西安-蓮河) |
京図線 | 新京 - 図們 | 528.0 | 吉長吉敦鉄路(新京-敦化) 敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺) |
龍豊線 | 龍潭山 - 大豊満 | 22.4 | |
金珠線 | 江北 - 金珠 | 18.8 | 吉林鉄路(新吉林-金珠) |
小新連絡線 [貨] | 小姑家 - 新站 | 9.1 | |
朝開線 | 朝陽川 - 上三峰 | 60.6 | |
和龍線 | 龍井 - 和龍 | 61.1 | |
合水連絡線 [貨] | 萱穂信号場 - 合水信号場 | ― | |
図佳線 | 図們 - 佳木斯 | 580.2 | |
佳木斯埠頭線 [貨] | 佳木斯 - 佳木斯埠頭 | 3.6 | |
興寧線 | 新興 - 城子溝 | 216.1 | |
汪清連絡線 [貨] | 汪清 - 小汪清 | 9.0 | |
虎林線 | 林口 - 虎頭 | 335.7 | |
恒山線 | 鶏寧 - 恒山 | 12.4 | |
拉浜線 | 三棵樹 - 拉法 | 265.5 | |
煤窯線 | 舒蘭 - 煤窯 | 30.4 | 吉林鉄路 |
京浜線 | 新京 - 哈爾浜 | 242.0 | 北満鉄路 |
浜洲線 | 哈爾浜 - 満洲里 | 934.8 | 北満鉄路 |
浜綏線 | 哈爾浜 - 綏芬河 | 546.4 | 北満鉄路 |
開道廻線 | 亜布洛尼 - 横道河子 | 59.2 | |
香坊連絡線 [貨] | 香坊 - 東門信号場 | 5.1 | |
東門連絡線 | 東門信号場 - 新香坊 | 6.2 | |
城鶏線 | 下城子 - 西鶏家 | 103.4 | 穆棱鉄路(下城子-梨樹鎮) |
綏寧線 | 河西 - 東寧 | 91.1 | |
浜江線 | 哈爾浜 - 三棵樹 | 8.8 | 北満鉄路(哈爾浜-浜江) |
三棵樹埠頭線 [貨] | 浜江 - 三棵樹 | 4.0 | |
哈爾浜埠頭線 | 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 | 2.9 | 北満鉄路(哈爾浜-八区) |
江南連絡線 [貨] | 太平橋 - 江南信号場 | 2.2 | |
浜北線 | 三棵樹 - 北安 | 326.1 | 呼海鉄路(新松浦-海倫) 海克鉄路(海倫-北安) |
綏佳線 | 綏化 - 佳木斯 | 381.8 | |
鶴岡線 | 蓮江口 - 鶴岡 | 54.3 | |
蓮江口埠頭線 [貨] | 蓮江口 - 蓮江口埠頭 | 3.5 | |
北黒線 | 北安 - 黒河 | 302.9 | |
黒河埠頭線 [貨] | 黒河 - 黒河埠頭 | 4.2 | |
斉北線 | 斉斉哈爾 - 北安 | 231.5 | 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安) 泰克鉄路(泰安-克山) 海克鉄路(克山-北安) |
寧霍線 | 寧年 - 霍龍門 | 284.0 | 斉克鉄路(寧年-拉哈) |
平斉線 | 四平 - 斉斉哈爾 | 571.4 | 四洮鉄路(四平-洮南) 洮昂鉄路(洮南-三間房) 斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾) |
京白線 | 新京 - 白城子 | 332.6 | |
白杜線 | 白城子 - 杜魯爾 | 376.5 | 洮索鉄路(白城子-寧家) |
楡樹線 | 楡樹屯 - 昂昂渓 | 6.4 | 斉克鉄路 |
渓堿線 | 宮原 - 田師府 | 86.0 |
新線
安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)
社内専用線
湯旺森林線
廃止線
- 社線
- 霊山線[貨] 首山 - 霊山操車場(1941年6月1日廃止)
- 西寛城子線 孟家屯 - 寛城子(1909年2月3日廃止)
- 国線
- 馬船口線 (松浦 - 馬船口、旧呼海鉄路、1936年7月1日廃止)
- 奶子山線[貨] (蛟河 - 奶子山、旧吉長吉敦鉄路、1936年9月1日廃止)
- 松浦線(新松浦 - 松浦、旧呼海鉄路、1938年6月1日廃止)
- 道裡線[貨] (哈爾浜 - 道裡、旧北満鉄路、1941年12月1日廃止)
- 新線
- 東当線(1944年4月1日廃止)
満鉄の車両
- ^ 旧字体「」の字は、異体字セレクタを用いたUnicodeの符号位置はU+9053,U+E0101。
- ^ 現在の港区麻布台2丁目1番2号、跡地には東京アメリカンクラブが造られた
- ^ 2023年時点では1979年新築の商船三井本社ビルがある。また東京支社の売却益は満鉄会の活動費にあてられた
- ^ ポーツマス条約第6条は長春以南の東清鉄道南支線のロシアから日本に譲渡すること、第7条は両国の満洲における鉄道を商工業目的のために限って使用し、軍略のために用いないこと、第8条は両国間の鉄道の接続業務について早急に別役を設けることを、それぞれ定めた[23] → 条約本文は「日露講和條約(ウィキソース)」参照。
- ^ 「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった[20]。
- ^ ロシアと清国の間では旅順・大連租借に関する露清条約(1898年)・満洲に関する露清協定(1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた[30]。
- ^ 残りは、東洋拓殖会社や韓国政府への貸付などに投資された[45]。
- ^ 「午前8時の男でやろう」とは、要するに若手を起用しようということ。後藤新平は、世間を知った働きざかりの「午後3時」ではなく、経験は浅くても新鮮なやる気に満ちた年代の人を用いることを人事の大方針とした。
- ^ 満鉄重役の地位は、このころから政党の利権の対象となりつつあり、政党が植民地企業を支配しようという動きも表面化してきた[56]。朝鮮の東洋拓殖株式会社副総裁にも、このとき、政友会から野田卯太郎が送り込まれている[56]。
- ^ 「弐(ニ)キ」とは東条英機と星野直樹、「参(三)スケ」とは松岡洋右、鮎川義介、岸信介。
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- 南満洲鉄道のページへのリンク