北条貞顕
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参考文献
- 永井晋 『金沢貞顕』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年。ISBN 4-642-05228-3。
- 細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-02786-6。
- 安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。
注釈
- ^ 建長7年(1255年)との説もある[1]。
- ^ 『鎌倉・室町人名事典』では母を安達泰盛の娘としている。
- ^ 貞顕が北方へ転任するという噂があったが、本人は長期に渡る在京の不満や所領問題から「身の大訴」として鎌倉帰還を強く要望した。なお、貞顕は12月24日まで南方を務めている[7]。
- ^ 1月17日付の書状で貞顕がこの役に選ばれたことを喜んでいた旨が記されている[8]。
- ^ 『保暦間記』には「関東の侍、老いたるは申すに及ばず、十六、七の若者どもまで、皆出家入道す、いまいましくも不思議の瑞相なり」とある。
- ^ 3月20日付の貞将宛の書状で貞顕は「やがてやがて、火中に入れられ候べく候」と身の危険を感じていたことを示している一文がある[9]。
- ^ 『太平記』には「金沢大夫入道崇顕」として名が見え、高時と共に自刃したとしている[12]。
出典
- ^ 安田 1985, p. 537.
- ^ 永井 2003, p. 3.
- ^ 永井 2003, pp. 15–17.
- ^ 永井 2003, p. 27.
- ^ 永井 2003, p. 28.
- ^ 永井 2003, pp. 39–44.
- ^ 永井 2003, pp. 54–55, 63.
- ^ 永井 2003, p. 63.
- ^ a b 永井 2003, p. 111.
- ^ 永井 2003, p. 113.
- ^ 永井 2003, p. 122.
- ^ 永井 2003, p. 150.
- ^ 永井 2003, p. 215.
- ^ a b c 永井 2003, p. 5.
- ^ 永井 2003, p. 213.
- ^ 永井 2003, p. 203.
- ^ a b 永井 2003, p. 204.
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