二条良基 備考

二条良基

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 06:06 UTC 版)

備考

百瀬今朝雄は、良基の書状とされる文書には他の公家よりも女房奉書による漢字交じりの仮名文形式が多いことに注目し、これらの書状の中に女房のふりをして良基自身が執筆した直状(自筆の書状)を含んでいるのではないか?としている(当時の公家の書状は変体漢文によって作成されるのが一般的であった)。百瀬は良基が和文を好んだことも理由としながらも、一番の理由として良基が「せっかち」な性格で夜中などに緊急の書状を出す必要を感じた時に右筆を務める家司の出仕を待つ時間を惜しんだのではないか?と推測している[19]

官職および位階等の履歴

※日付=旧暦
8月9日、元服し、禁色を許され、正五位下に叙位。  8月14日、侍従に任官。
9月21日、左近衛少将に転任。  9月22日、従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。  9月28日、左近衛中将に転任。
1月5日、従四位上に昇叙し、左近衛中将如元。
3月16日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。
6月28日、権中納言に転任し、左近衛中将如元。
1月5日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。
4月15日、権中納言を辞任。
5月17日、権中納言に還任。
6月12日、従二位に昇叙し、権中納言如元。
3月2日、権大納言に転任。
8月8日、正二位に昇叙し、権大納言如元。
10月19日、左近衛大将を兼任。
7月19日、内大臣に任。  7月24日、左近衛大将如元。
3月30日、東宮(興仁親王、のちの崇光天皇)傅を兼。
12月21日、左近衛大将を辞。
4月10日、右大臣に転、東宮傅如元。
2月29日、関白宣下、内覧宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。右大臣・東宮傅如元。
1月5日、従一位に昇叙し、関白・内覧・藤原氏長者・一座・右大臣・東宮傅如元。
9月16日、左大臣に転任。
10月26日、東宮傅を辞任。
9月13日、左大臣を辞任。
12月29日、関白を辞、内覧宣下。
6月27日、関白宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。内覧如元。
8月27日、関白を辞すも内覧宣下。
元日、准三宮宣下。
7月23日、任太政大臣
4月11日、摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。准三宮・内覧・太政大臣如元。
10月20日、内舎人随身を賜る
1月8日、太政大臣を辞任。
2月7日、摂政を辞す。内覧宣下。
4月8日、摂政宣下、一座宣下、藤原氏長者宣下。
6月13日、薨去。享年69  号:後普光園院摂政太政大臣。

系譜


公卿補任』では南朝関白となった二条師基も良基の兄弟となっているが、実は父・道平の弟で良基誕生以前にその猶子になっていたとする説が有力である[20]


注釈

  1. ^ a b 『公卿補任』では計4度であるが、これは観応2年11月7日の南朝による崇光天皇廃位に伴う解官を関白の職務のみが停止されたものとしてこの期間も一貫して関白であるとし、翌年(文和元年)6月25日の広義門院の命による関白の職務を再開した(「関白如旧」)とするためである[17]。なお、同書観応2年の記事には二条師基が「十二月廿八日、為関白」と記されているが、良基の停止に関する記述は書かれておらず、文和元年条に「関白如旧」と記されているだけである[18]
  2. ^ 康安元年(1361年)暮れから翌年初めにかけて、南朝軍が4度目の京都占領を行って、後光厳天皇は3度目の京都脱出(近江国)をしているが、直ちに撃退されて帰還している。これが南朝軍による最後の京都占領となる。
  3. ^ 良基に正室(北政所)がいたかは不明。なお、長男・師良の生母は家女房とされているが詳細は不明である。
  4. ^ この年の4月に尊氏が死去し、義詮が事実上の将軍であった(12月に正式に将軍宣下)。
  5. ^ 二条家は創設の経緯(初代の二条良実は実父の九条道家から義絶されていた)から、父祖の文書・日記類を受け継げなかったが、経嗣の計らいで良基は一条家に伝わる摂関家代々の文書・日記類の写本を手に入れることが出来た[10]
  6. ^ 後小松天皇は当時5歳で、当時の慣例では天皇の元服は11歳で行われていた[14]

出典

  1. ^ 花園院宸記』正慶元年4月10日条
  2. ^ 木藤、1987年、P 27-31・小川、2005年、P21-24
  3. ^ 木藤、1987年、P31-37・小川、2005年、P24-29
  4. ^ 木藤、1987年、P39-44・小川、2005年、P29-36
  5. ^ 木藤、1987年、P44・小川、2005年、P37-39
  6. ^ 木藤、1987年、P44-48・小川、2005年、P39-43
  7. ^ a b 松永和浩「南北朝期公家社会の求心力構造と室町幕府」(初出:『ヒストリア』201号(2006年)/所収:松永『室町期公武関係と南北朝内乱』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-02911-7
  8. ^ 木藤、1987年、P48-63・小川、2005年、P43-48
  9. ^ 木藤、1987年、P63-68・小川、2005年、P48-49・65-67
  10. ^ 臼井和樹「『玉葉』をさがせ-楓山秘閣玉海捜探」 小原仁 編『変革期の社会と九条兼実 『玉葉』をひらく』(勉誠出版、2018年) ISBN 978-4-585-22217-0 P440.
  11. ^ 木藤、1987年、P69-96・小川、2005年、P49-62
  12. ^ 木藤、1987年、P97-107・小川、2005年、P62-73
  13. ^ 木藤、1987年、P107-128・小川、2005年、P74-87
  14. ^ 小川、2005年、P95-96
  15. ^ 木藤、1987年、P116-153・小川、2005年、P77-110
  16. ^ 木藤、1987年、P153-158・小川、2005年、P110-113
  17. ^ 小川、2005年、P41-42
  18. ^ 木藤、1987年、P320
  19. ^ 百瀬「二条良基と世阿弥」『弘安書札礼の研究』(東京大学出版会、2000年)P321-323.(初出:『能楽研究』23号、1998年)
  20. ^ 木藤、1987年、P17-19
  21. ^ 甲斐, 玄洋「<論説> 建武政権の太政官符発給 : 政権の理念と構想の一断面」『学習院史学』第45巻、2007年、18–34頁。  . p. 30.


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