三笑亭可楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/25 04:15 UTC 版)
江戸時代よりその名が続く。名の由来は「山椒は小粒でひりりと辛い」から「山生亭花楽」とし後に松戸の贔屓客から「虎渓三笑」の故事に因んで「三笑亭可楽」とした。
毎年4月上旬に、当代可楽一門によって「可楽まつり」が行われる。
初代
初代 | |
別名 | 京屋 又五郎 |
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生年月日 | 1777年 |
没年月日 | 1833年4月27日 |
出身地 | 日本・江戸日本橋馬喰町 |
名跡 | 1. 山生亭花楽(1798年) 2. 三笑亭可楽(1798年 - 1833年) |
活動期間 | 1798年 - 1833年 |
初代 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、1777年〈安永6年〉 - 1833年4月27日〈天保4年3月8日〉)は、落語家。通称、京屋 又五郎。
最も古い職業落語家(噺家)の一人とされる。生まれは馬喰町で、櫛職人から噺家になった人物。寛政10年(1798年)7月に、山生亭花楽と名乗って3人の天狗連(アマチュア)の噺家と共に江戸の下谷稲荷神社で寄席を開いた。同年同月、岡本万作によってもう一軒の寄席が開かれており、この2軒が日本最初の寄席と考えられている。
一度は職人に戻ったが、諦めきれずに同年9月には越ヶ谷で興行を起こし、これが成功する。10月には松戸にて三笑亭可楽に改名した。その後は本所東両国に定席を確保し、何度か咄の会を開いて三題咄や謎解きを行って客との交流を深めると同時に、線香が一分(約3ミリ)灰になるまでの短い間に落し咄を即席で考える「一分線香即席咄」を披露していた。
墓所は浅草の潮江院。戒名は「三笑亭安誉可楽信士」。
弟子
弟子は「可楽十哲」と呼ばれ、現在に繋がる一流の諸派の祖を輩出している。また実子に馬士三郎、楽寿がいる。
- 初代朝寝房夢羅久[1]
- 初代船遊亭扇橋[2]
- 初代喜久亭寿楽[3]
- 初代萬笑亭亀楽
- 初代三笑亭佐楽
- 初代東亭鬼丸
- 自笑亭里楽
- 初代宇治新口(立川談志)
- 初代三笑亭古楽
- 初代林屋正蔵[4]
- 初代三笑亭可重[5][6]
- 初代三笑亭可上[7]
- 三笑亭世楽[8]
- 三笑亭都楽、のちに都屋都楽、通称(初代)うつしゑ都楽[9]
- 2代目三笑亭可楽
- つるや萬助
- 初代川島歌遊
- よたん坊ゆ又
- 初代瀧亭鯉丈
- 初代菅良助
- 2代目菅良助
3代目
3代目可楽は2人存在する。
- 3代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、生年不詳 - 安政4年6月4日〈1857年7月24日〉)は、落語家。本名:不詳。
- 3代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、生没年不詳)は、落語家。本名:原 金兵衛。通称「武正可楽(武生可楽)」。
- 麻布生まれ。2代目可楽の養子となる。さん助、春の家(または春のや)せい馬、2代目?3代目?斎藤太郎左衛門(または西東太郎左衛門)、翁屋さん馬(代数には入らず)、翁屋小三馬(または小さん馬)など名乗り全国を遊歴。襲名時期不明。のちに可楽の名跡を妹婿(#4代目)に譲り、全亭武正を名乗った。上方5代目三笑亭可楽は客分弟子。
三笑亭可楽と同じ種類の言葉
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