リシュリュー
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芸術と文化
リシュリューは芸術家のパトロンとして有名だった。自身も多くの宗教や政治に関する著作を残しており、もっとも有名な著作が『政治的遺書』である。彼は多くの文学者に資金を出しており、また当時は芸術としての評価が低かった演劇も愛好した。後援した人物の一人に劇作家のコルネイユがいる。
リシュリューは傑出したフランス文学学会であるアカデミー・フランセーズを創設し、パトロンとなった。元々は非公式の文人サークルだったが、リシュリューがこの団体のために特許証を出している。アカデミー・フランセーズは40人の会員から成り、文学を奨励し、現在でもフランス語の公的権威であり続けている。リシュリューは学会の「保護者」となり、1672年以降、この地位には歴代のフランス国家元首が就いている。
1622年にリシュリューはソルボンヌの学長に選出された。彼は大学の建物の改築を取り仕切り、有名なチャペルを建築した。死後ここに埋葬された。リュソン司教であったため、彼の彫像がリュソン城外に建っている。
リシュリューはパリ市内の城館パレ・カルディナルの建築を監督した。城館はリシュリューの死後にパレ・ロワイヤルと名を変えて、現在はフランス憲法院、文化省、国務院が入っている。パレ・カルディナルの建築家ジャック・ルメルシエはアンドル=エ=ロワールにある一族伝来の領地の城館と周辺市街の建設も任され、この計画はリシュリュー城とリシュリュー市街の建設にまで発展した。彼はこの城館にヨーロッパ最大の芸術コレクションを加えており、最も有名な作品にはミケランジェロ製作の彫刻『奴隷』や、ルーベンス、プッサンそしてティツィアーノの絵画があった。詩人ラ・フォンテーヌはこの地を「世界でもっとも美しい村」と述べている[21]。フランス革命が起こるとコレクションは散逸し、城館は解体された[22]。
- ^ Armand-Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu French cardinal and statesman Encyclopædia Britannica
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p15
- ^ 「宰相リシュリュー」p57
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p17
- ^ 「宰相リシュリュー」p67
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p18
- ^ 「ラルース図説 世界史人物百科〈2〉」p239
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p21
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p46
- ^ 「宰相リシュリュー」p120
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p85
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p52
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p46-47
- ^ 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p261-262
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p83-84
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p133-175
- ^ 「世界の歴史9 絶対主義の盛衰」p42
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p48
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p57
- ^ 「世界の歴史9 絶対主義の盛衰」p44
- ^ 「宰相リシュリュー」p24-25
- ^ 「宰相リシュリュー」p25
- ^ 「宰相リシュリュー」p20-21
- ^ 「一年有半・続一年有半」
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p85-86
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p24
- ^ 「リシュリューとオリバーレス」p25
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