ラグラン (モニター) ラグラン (モニター)の概要

ラグラン (モニター)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/17 18:02 UTC 版)

艦歴
発注
起工 1914年12月1日
進水 1915年4月29日
就役 1915年5月
退役
その後 1918年1月20日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 6,150トン
全長 334.5 ft (102.0 m)
全幅 90 ft (27 m)
吃水 10.2 ft (3.1 m)
機関
最大速 6ノット (11 km/h)
乗員 198名
兵装 14インチ砲2門、
12ポンド砲2門、
3ポンド対空砲1門、
2ポンド対空砲1門、
14インチ砲2門(1918年増設)
6インチ砲1門(1918年増設)
12ポンド対空砲2門(1918年増設)

艦歴

1914年12月1日起工。1915年4月29日進水。同年6月24日就役。艦名は最初ロバート・E・リー (Robert E Lee) であったが、1915年5月31日にM3となり、同年6月19日にロード・ラグラン (Lord Raglan) となった後、23日にラグランとなった。

就役後、アバークロンビー級モニターは4隻ともガリポリの戦いに投入された。ラグランは1915年6月28日にイギリスを離れ、巡洋艦ダイアナに曳航されてダーダネルス海峡へ向かった。ラグランは7月22日に現地に到着した。

ガリポリの戦いが終わると、アバークロンビー級4隻のうち2隻がイギリスに戻ったが、ラグランとアバークロンビー地中海に残った。

1918年1月20日、ラグランはモニターM28とともにインブロス島北東部のKusu湾に停泊していた。この日、トルコの巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムと巡洋艦ミディッリがダーダネルス海峡から出撃してきた。2隻は発見されること無くKusu湾に接近し、インブロス島北東部で哨戒中であった駆逐艦リザードが2隻を発見した。トルコ艦隊はリザードを追い払った後2隻のモニターに対して攻撃を開始し、ミディッリの第4斉射でラグランに命中弾が出た。この後さらにミディッリから機関室などに命中弾を受け、それからヤウズ・スルタン・セリムの280mm砲弾が命中した。これにより主砲が使用不能となり、艦の放棄が命じられた。攻撃はこの後も続き、ラグランは爆発を起こして着底した。ラグランの戦死者は127人[1]で生存者は93人であった。また、この戦闘ではM28も撃沈された。

参考文献

  • Ian Buxton, Big Gun Monitors : Design, Construction and Operations 1914-1945, Seaforth Publishing, 2008, ISBN 978-1-84415-719-8
  • David Hepper, British Warship Losses in the Ironclad Era, 1860-1919, Chatham Publishing, 2006, ISBN 1-86176-273-9





  1. ^ Big Gun Monitors : Design, Construction and Operations 1914-1945 38ページ。British Warship Losses in the Ironclad Eraでは戦闘での死者は122人とある。


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