マイアミの奇跡 その後

マイアミの奇跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/31 00:13 UTC 版)

その後

日本は続く第2戦ではナイジェリア(この大会で優勝し金メダル獲得)に0-2で敗れたものの、第3戦ハンガリー戦で3-2で逆転勝利。2勝1敗の成績を残したが、ナイジェリア戦の2失点が響き、得失点差で3位となりグループリーグ敗退となった[2]

アトランタ五輪大会後、日本サッカー協会(JFA)技術委員会は、JFAテクニカルレポート[注 8] で、日本アトランタ五輪男子代表について「守備的なサッカーで将来につながらない」と厳しい評価を下した。他の日本五輪男子代表スタッフがその評価に憤りを示す中、西野朗監督は努めて冷静に受け止めたという[5]

西野は「将来の日本代表監督候補」と言われながらも、アトランタ五輪後はナショナルチームを離れ、Jリーグのクラブ監督を務めた。攻撃的サッカーを標榜し、柏レイソルガンバ大阪でタイトルを獲得して、Jリーグ最多勝監督となった[5]ヴァイッド・ハリルホジッチ前日本代表監督の解任を受け、2018年4月9日に日本代表監督に年俸約1億2500万円[10](同年4月7日までに西野はJFA理事、JFA技術委員長、Jリーグ理事を辞任)で、任期はロシアW杯後の7月31日まで[11]という契約で、22年ぶりにナショナルチームを指揮することとなった。「2018 FIFAワールドカップ」では下馬評の低かった日本代表を2大会ぶりの決勝トーナメント進出(ベスト16)に導いた。また第3戦のポーランド戦では終盤の消極的戦術(試合終了まで10分間の自陣でのパス回し)が物議を醸したが、アトランタ五輪で得失点差により決勝トーナメント進出を逃した苦い経験からとの論調もあった[12]。西野は、日本代表監督を任期満了で退任した[13]。在任期間はわずか3カ月23日(114日)間で、日本代表選手との帯同期間は5月21日の合宿から7月5日の帰国会見までのわずか46日間であった。

山本昌邦コーチは2004年アテネオリンピックで日本五輪代表チームを指揮したが、グループ最下位(1勝2敗)で敗退した。松永英機スカウティングスタッフは、ヴェルディ川崎清水エスパルスヴァンフォーレ甲府FC岐阜の監督を務め、特に甲府や岐阜での評価が高い。

マイアミの奇跡から4年後、2000年シドニー五輪男子グループリーグD組最終戦でも日本とブラジルが対戦。この時はブラジルが1-0で勝利し、4年前の雪辱を果たす形となった。この時は両国とも勝ち点6で共に決勝トーナメント進出を果たした(得失点差でブラジルが1位、日本が2位)。2022年現在、A代表でのブラジル戦勝利は果たせていない。

さらに16年後のリオデジャネイロオリンピックの際のポット分けでは、この試合の勝利によって得たポイントによって、日本はポット1を確保することが出来た[14]


注釈

  1. ^ 当時は、前回優勝国は次の大会が予選免除されており、優勝国のブラジルは南米予選を免除されていた。なお、2006年大会からは前回優勝国も予選から参加することになった。
  2. ^ サガロはA代表では1998 FIFAワールドカップに向けて、前年のコパ・アメリカ1995から若手を積極的に起用する方針を持っており、本大会はその一環であったと言える。
  3. ^ ロナウジーニョ(ロナウド・デ・アシス・モレイラ)ではなくロナウド(ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ)。DFのロナウド・ギアロ(大会登録名ロナウド)がいたので、大会登録名をロナウジーニョにした。アトランタ五輪時点ではFCバルセロナへの移籍前で(当時としては破格の1700万ドル(当時22億円)で移籍)、ブラジル五輪代表では控えのFWだった。
  4. ^ 1995年には6月のアンブロカップ(リバプール)と8月の親善試合(国立競技場)で日本対ブラジル戦が行われ、ロベルト・カルロスとサヴィオが日本A代表から得点していた。
  5. ^ オーバーエイジ枠だけでなく、アジア予選を戦っていない23歳以下の選手も基本的には呼ばれず、中西永輔楢﨑正剛平野孝三浦淳寛山田暢久など、当時Jリーグで活躍しており、後にA代表に選出されるメンバーも選出外であった。
  6. ^ 前園真聖著『ドリブル』 (ベースボール・マガジン社、1995年)によれば、加茂周日本A代表監督から重要な戦力として期待されていたが、日本A代表と日本五輪代表(U-23日本)のかけもちに疲れていたため、1995年3月に前園本人の意向も汲み取った上で、アトランタ五輪が終わるまで日本五輪代表を優先する方針を日本サッカー協会が決めたとある。
  7. ^ 後に仏W杯日本代表柏レイソル等でもGKコーチを務めた。
  8. ^ FIFA及び協会技術委員等が出す大会報告書のこと。大会のサッカーの傾向及び各チームの分析等を行い、育成方針等の指導改善に役立てる。FIFA及び各国協会がそれぞれ独自に作成する。JFAの場合は、指導者登録していれば、配布される。

出典

  1. ^ 「歴史塗り替えろ」メキシコ戦士がエール サッカー男子3日準決勝”. 産経ニュース (2021年8月2日). 2021年10月5日閲覧。
  2. ^ a b "Olympic Football Tournaments Atlanta 1996 - Men". FIFA公式HP.2018年7月21日閲覧
  3. ^ "No.144 アトランタに向け十分な準備を". 大住良之HP.1996年4月1日
  4. ^ a b c d "【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」 ". Soccer Journal編集部.(2012年6月20日)2013年9月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 山本昌邦著『日本サッカー遺産-ワールドカップ出場舞台裏の歴史と戦略』P20-P25、P78-P82
  6. ^ a b c "【復刻】日本、マイアミの奇跡で世界衝撃【1996年7月23日付・日刊スポーツ紙面】". 日刊スポーツ.2013年10月13日
  7. ^ FIFA公式記録
  8. ^ Brazil Ambushed by Upstart Japan, 1-0ロサンゼルス・タイムズ、1996年7月22日
  9. ^ O 'Milagre de Miami': Há 20 anos, Japão vencia o Brasil pela 1ª vez na história当時のブラジル紙及び日本のスポーツ新聞の写真有。ジャーナリストTiago Bontempo、2016年7月21日
  10. ^ 西野監督17位 W杯32チーム監督年俸ランク(日刊スポーツ2018年5月12日配信記事(配信日に閲覧))
  11. ^ ハリル電撃解任、田嶋会長会見要旨(ゲキサカ2018年4月9日配信記事(配信日に閲覧))
  12. ^ "前園、アトランタ五輪で共闘した西野監督“敗戦容認”の背景語る. スポーツ報知.(2018年6月29日)2018年6月30日閲覧。
  13. ^ 西野朗監督は任期満了で退任へ 田嶋会長が明かす(産経ニュース2018年7月5日配信記事(配信日に閲覧))
  14. ^ リオ五輪、日本第1シード立役者はマイアミの奇跡?”. 日刊スポーツ (2016年3月31日). 2022年11月21日閲覧。





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