ボローニャ ボローニャの概要

ボローニャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/24 19:01 UTC 版)

ボローニャ
Bologna
ボローニャの風景
行政
イタリア国旗 イタリア
Regione-Emilia-Romagna-Stemma.svg エミリア=ロマーニャ
Blank.png ボローニャ
CAP(郵便番号) 40100
市外局番 051
ISTATコード 037006
識別コード A944
分離集落
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 371,151 [1](2012-01-01)
人口密度 2637.3 人/km2
文化
住民の呼称 bolognesi
守護聖人 San Petronio
祝祭日 10月4日
地理
座標 北緯44度30分27秒 東経11度21分5秒 / 北緯44.50750度 東経11.35139度 / 44.50750; 11.35139座標: 北緯44度30分27秒 東経11度21分5秒 / 北緯44.50750度 東経11.35139度 / 44.50750; 11.35139
標高 54 (31 - 392) [2] m
面積 140.73 [3] km2
ボローニャの位置
ボローニャの位置
ボローニャ県におけるコムーネの領域
ボローニャ県におけるコムーネの領域
Flag of Italy.svg ポータル イタリア
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アペニン山脈ポー川の間にあるポー川谷に位置する。1088年創立と、西欧最古の大学ボローニャ大学(ラテン語名アルマ・マタル・ストゥディオルム)がある。また、ボローニャはイタリア有数の発展した都市である。ボローニャのイタリア国内での生活の質の高さは常に10位以内に入る[4]。これは強力な工業都市としての伝統と、都市の位置によるものである。ボローニャは国で最も重要な高速道と鉄道が交差する地点にある。同様に、高度に発展した社会サービスが広範囲に行われている。

名称

標準イタリア語以外の言語では以下の名称を持つ。

地理

位置・広がり

ボローニャ県の中央部に位置する。ボローニャの市街は、モデナから南東へ38km、フェラーラから南西へ44km、ラヴェンナから西へ69km、フィレンツェから北へ81kmの距離にある[5]

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史

古代

ボローニャの周辺地域では、紀元前9世紀ごろには定住民が暮らすようになった。かれらの文化はヴィッラノーヴァ文化英語版と呼ばれ、紀元前6世紀ころまで続く。なお、この「ヴィッラノーヴァ文化」という名称は、19世紀にボローニャ近郊のヴィッラノーヴァ(カステナーゾ市)で発掘調査が行われたことに由来する。周辺地域に広がった。紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけて、この地域にはエトルリアの影響が及び、住民もウンブリ人 (Umbriからエトルリア人に移り変わった。エトルリア人の時代、町はフェルシナラテン語: Felsina)の名で呼ばれた。

紀元前4世紀、ボローニャとその周辺地域は、ポー川以北からやってきたケルト人ガリア人)の一部族・ボイイ族によって征服された。短い抗争の期間を経て、ボイイ族はこの地に定着してエトルリア人と混合した。近代の歴史学者はかれらの文化をガリア=エトルリア文化と呼んでいる。アペニン山麓のモンテ・ビベーレ (it:Monte Bibeleモンテレンツィオ町)はその代表的な遺跡である。ボイイ族による支配は、紀元前196年にローマ人によって破られるまで続いた。

ボイイ族をはじとするガリア人はテラモンの戦い英語版(紀元前225年)でローマ人に大敗を喫し、やむをえずローマ人の影響を受け入れることになった。しかし、ポエニ戦争に際してガリア人はローマに反旗を翻し、アルプスを越えたハンニバルを支援して歩兵を提供した。カルタゴ人の敗北は、ガリア人の自由の終わりでもあった。ローマ人はガリア人の多くの町や村を破壊した(モンテ・ビベーレもこの時に破壊された)。

代わってローマ人は、紀元前189年頃に植民市ボノニアBononia)を建設した。この植民市への移住者の中には、執政官(コンスル)のルキウス・ウァレリウス・フラックス英語版に率いられたラテン人の3000世帯が含まれていた。ガリア人はローマ人の中に吸収されたが、かれらが使っていたケルト語の影響はボローニャ方言の中に残っている。紀元前187年にはアエミリア街道が建設されるとボノニアは交通の要衝となり、フラミニア・ミノール街道 (it:Via Flaminia militareによってアレッツォと、アエミリア・アルティナーテ街道によってアクイレイアと結ばれた。

紀元前88年、市はムニキピウムmunicipium)となった。市は6つのカルディ(cardi)と8つのデクマニ(decumani、交差する道路)で構成された直線的な街路設計が行われ、これらは今も見分けられる。ローマ帝国時代の都市の人口は、1万2000人ないし3万人であった。最盛期にはイタリア第2の都市にして帝国内でも最重要の都市の一つであり、多種多様な神殿、公共浴場、劇場、アリーナがあった。地理学者ポンポニウス・メラ英語版は、ボロニアをイタリア内の裕福な(opulentissimae)5都市に含めた。クラウディウス帝時代に市は火事で損傷したが、ネロが紀元1世紀に再建した。

ローマ帝国の衰亡後、この地はオドアケル東ゴート王国テオドリック東ローマ帝国の支配下に置かれ、ランゴバルド王国の版図に収まった。ランゴバルド人はこの都市を軍事拠点として用いた。774年フランク王国カール大帝によってこの都市は占領され、ローマ教皇に寄進された。

中世

長い衰退の後、ボローニャは司教である聖ペトロニウス時代の5世紀に生まれ変わった。ペトロニウスは聖ステファノ教会を建てた。ローマ帝国衰退後、ボローニャはポー平野にあるラヴェンナ総督府の辺境要塞となり、城壁の列で守られていた。しかし古代ローマ都市の廃墟は囲まれなかった。728年、市はロンゴバルド族の王リウトプランドによって攻略され、ロンゴバルド王国の一部となった。ゲルマン人征服者たちは聖ステファノの教会複合施設近郊で、アッディツィオーネ・ロンゴバルダと呼ばれる地区をつくった。この地区には786年カール大帝が滞在した。

11世紀、ボローニャは自由中世コムーネとして再成長を始め、1164年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対抗するロンバルディア同盟へ加わった。1088年、ストゥディオと呼ばれるボローニャ大学が創立された。これが今やヨーロッパ最古の大学となり、イルネリウスのような名の知られた中世の学者、ダンテ・アリギエーリジョヴァンニ・ボッカッチョフランチェスコ・ペトラルカといった学生らを誇る。12世紀、市の拡大は新たな城壁一列を必要とし、別の物は14世紀に完成した。

1256年、ボローニャは天国法(Legge del Paradiso)を宣伝した。この法律は、公共の資金を利用して封建的農奴廃止と奴隷の解放を訴えていた。当時の市中心部はおよそ180という塔で埋まっていた。この塔は有力者家族によって建てられ、他には有名な公共の大邸宅、教会、修道院・寺院があった。1270年代のボローニャの政治は、ポデスタ英語版 (官職名)として仕えていたジェノヴァ出身の政治家・外交官ルケット・ガッティルシオ英語版によって支配されていた。当時のイタリア都市の大半同様、ボローニャは教皇派と皇帝派に関係した内部抗争によって引き裂かれていた。この内部抗争は、1274年、皇帝派のランベルタッツィ家の追放が引き金となった。

1294年、人口の多い順に、コルドバパリヴェネツィアフィレンツェミラノに次いで、ボローニャは欧州で第5か第6の大都市で、6万人か7万人の人口があった。1325年のモデナによるザッポリーノの戦いでの激突後、ボローニャは衰退を始め、14世紀初頭にはローマ教皇の保護を依頼していた。1348年、黒死病大流行の最中、市の人口およそ3万人が死んだ。

15世紀のベンティヴォーリョ家のグロシュ
有名なボローニャの塔(it:Torri di Bologna
アシネッリ塔(it:Torri di Bologna

ルネサンス

タッデオ・ペポリ(治世: 1337年–1347年)による幸福な支配の後、ボローニャはミラノのヴィスコンティ家のものになった。しかし、1360年枢機卿ジル・デ・アルボルノスの勢力圏だった教皇領へと返還された。続く年月には1377年のような共和制政権の交替が見られた。ボローニャの有力貴族らが互いに血なまぐさい戦いを続けるのに忙しい間、この政権はサン・ペトロニオ大聖堂の建設、メルカンティのロッジア、そして教皇庁またはヴィスコンティ家復古主義者らへの処置に責任を負った。15世紀半ばに、ベンティヴォーリョ家がボローニャ支配権を獲得し、サンテ・ベンティヴォーリョ(治世: 1445年–1462年)、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリョ英語版(治世: 1462年–1506年)が支配した。この時代は、著名な建築家や画家が存在し、彼らがボローニャを真の芸術都市にした、繁栄の時代だった。ルネサンス時代、ボローニャは、秀でた女性であればどんな専門的職業にも就けた唯一のイタリア都市だった。ボローニャの女性はイタリア他都市の女性よりもさらに大きな自由を持っていた。一部の女性は、大学で単位を得る機会すら持っていたのだ。

ジョヴァンニ2世の治世が1506年で終わると、ローマ教皇ユリウス2世軍はボローニャを包囲し、自分の宮殿用にと芸術作品を略奪した。この頃から、ボローニャは教皇領の一部になり、枢機卿に支配され、毎回2ヶ月間選出されるゴンファロニエーレ(gonfaloniere、裁判官)が議員となり、8人の長老コンスルがそれを補助した。1530年、サン・ペトロニオ大聖堂正面で、神聖ローマ皇帝カール5世が教皇クレメンス7世によって戴冠した。

16世紀終わりにペスト流行があり人口を7万2000人から5万9000人へ減らし、1630年には4万7000人だったが、市の繁栄は続いた。人口はのちに回復し、6万人から6万5000人で固定された。1564年、大学の所在地であるアルキジンナシオに沿ってネットゥーノ広場とバンキ広場が建設された。教皇領時代の支配は多くの教会やその他の宗教施設が建設され、古いものが修繕された。ボローニャには96箇所の修道院があり、これはどのイタリア他都市よりも多かった。この時代にボローニャで活躍した芸術家らは、アンニーバレ・カラッチドメニキーノグエルチーノといったヨーロッパに高名をとどろかせた者らを含むボローニャ派を形成した。

エンツォ王の宮殿
ネットゥーノ広場、背後にマッジョーレ広場
ジャンボローニャが製作したネットゥーノの泉イタリア語版
ボローニャで有名なポルチコの1つ

イタリア王国時代

ナポレオン・ボナパルトが台頭すると、ボローニャはチスパダーナ共和国の首都となり、続くチサルピナ共和国イタリア王国時代には、ミラノに次ぐ第2の都市となった。ナポレオン没落後、ボローニャでは教皇庁支配が復活したが、1831年1849年には、1860年まで市を支配したオーストリア帝国の駐留兵が一時的に追放されるほどの反乱が起こった。

1857年に教皇ピウス9世はボローニャを訪問したが、市は1859年6月12日サルデーニャ王国への併合に賛成し、イタリア統一運動に合流した。新たな政治状況の下、ボローニャはその文化的重要性を高め、商業、産業、通信の重要拠点となっていった。人口は再び増え始め、20世紀初頭には新たに増えた人口に対処するために、古い市壁が一部を残して破壊された。

第二次世界大戦中、ボローニャはドイツ軍の重要な輸送拠点だった。1945年4月21日アメリカ陸軍第34歩兵師団によるボローニャ攻略は、ポー川谷を開放し、ドイツ軍の北イタリア防衛線の崩壊につながった。

現代

第二次世界大戦後は東西冷戦の中、イタリア共産党を中心とした革新政党が市政を握る事となる。その結果革新政党がボローニャの財政状況を無視し、バスの時間限定無料化などの様々な「革新的」な施策を行う舞台とした反面、右派と左派の思惑が衝突する舞台となってしまう悲劇にも見舞われた。1980年8月2日に、強力な爆弾がボローニャ中央駅で爆発し、86人の死者を出した(ボローニャ駅爆破テロ事件)。そのわずか2ヶ月前には、ボローニャ発のイタビア航空870便が、疑わしい状況のもと爆破される事件が起きた。

冷戦崩壊後にはこの様な対立は収まったものの、現在も革新政党が比較的高い人気を保ち続け、今も「ウラジミール・レーニン大通り」など、革新政党全盛期の名残が市内の至る所にその痕跡をとどめている。






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