フォード劇場 劇場沿革

フォード劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 08:49 UTC 版)

劇場沿革

劇場の位置は、元々は1833年に最初のワシントンD.C.のバプテスト教会として建設された教会の拠点であった。教徒団が教会の権利を明渡した後の1861年、ジョン・T・フォードが所有権を引き継ぎ、劇場として改装した。彼は当初、劇場を「フォード文芸振興館(アシニーアム)」と称した。建物は1862年に火事で内部が全焼する事故に見舞われたが、翌年に「フォード新劇場」として改築・開場した。

バージニア州のアポマトックス郡庁舎(アポマトックス・コートハウス)にて、南北戦争における南軍の司令官、ロバート・E・リーが降伏してから僅か5日後、リンカーン大統領は階上バルコニー席である「ステート・ボックス」に座り、「われらがアメリカのいとこ(Our American Cousin)」を観賞していた。その時、当時有名な俳優で、廃れつつあった南部連合を援助しようと必死でもあった、ジョン・ウィルクス・ブースが大統領のボックス席へ足を踏み入れ、大統領の頭部を近距離からデリンジャーピストルで狙撃した。その後彼は席からステージへ飛び乗り、足を骨折しつつも、バージニア州のラテン語のモットーである「専制者は常にかくのごとし(Sic semper tyrannis)」や、ちょうど路地を通って逃走する際に「南部は復讐を果たした!」と叫んだとされる。(リンカーン大統領暗殺事件も参照。)

暗殺事件以降、演劇場としては約1世紀のあいだ閉鎖された。1866年から1887年の間、アメリカ陸軍によって引き継がれ、1階を後に現在のアメリカ国防総省の一部となるアメリカ陸軍局の記録保管所、2階を米国国立医学図書館、国立健康医学博物館の本部として扱われた。1887年にこうした医学的機関の用途が排除され、陸軍局員の事務室となった。更に1893年に建物が崩れ落ちる事件が起き、22人の陸軍局員が死亡、68人の局員が重軽傷を負った。この事件は多くの人々に、劇場へと改変される以前の教会や物置が呪われているのではないかといった噂や、劇場で起きた数々の悲劇がこの呪いを確証づけるものであるといった説を信じさせる結果となった。その後建物は修復され、1931年まで政府保税倉庫として使用された。劇場は、それから1967年12月に政府が劇場復興の為の資金を提供する是認がなされるまでの30年もの間、全く寂れてしまっていた。以来1970年から現在まで、フォード劇場は現役の劇場であると共に、アメリカ合衆国第16代大統領の暗殺を思い起こす史跡となっている。また劇場の地下階にある博物館はオルロイド・コレクション・オブ・リンカーニアナの一部を含む。

2008年現在、改修工事のため一時閉鎖中となっており、2009年中の再開が予定されている。








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