ファーティマ朝のエジプト征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/19 00:17 UTC 版)
ファーティマ朝の支配の強化
イフシード朝の残存勢力の制圧とシリアへの拡大の試み
イフシード朝の残存勢力はパレスチナのアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーの下に集結したが、一方ではビザンツ帝国がさらに北のアンティオキアを長期に及んだ包囲の末に占領し、アレッポのハムダーン朝に臣従を強要した。この状況を受けてジャウハルは最後のイフシード朝勢力を制圧し、さらにはジハードを再開する約束を果たす姿勢を示してビザンツ帝国と対決するためにジャアファル・ブン・ファッラーフが指揮する軍隊を派遣した[99][100]。
ファーティマ朝軍は970年5月にアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーを破って捕虜としたものの、ダマスクスの住民はクターマ族の兵士の粗暴な振舞いに激怒し、最終的に降伏して略奪を受けることになった970年11月まで抵抗を続けた[101][102]。ファーティマ朝の軍隊はアンティオキアを包囲するためにダマスクスから北へ向かったが、結果はビザンツ帝国に対する敗北に終わった[103]。さらに、同じ時期にジャアファル・ブン・ファッラーフは地域内のアラブのベドウィン部族と同盟したカルマト派の攻撃に直面し、971年8月の戦闘で敗れて戦死した。シリアとパレスチナにおけるファーティマ朝の支配の確立は失敗に終わり、エジプトへの道は無防備なまま残された[104][102][105]。
ヒジャーズにおけるファーティマ朝の支配権の承認
ファーティマ朝は主にムイッズが十二分な量の金を贈ったことで、ヒジャーズ地方(アラビア半島西部)と二つのイスラームの聖地であるメッカとマディーナにおいてより大きな成果を上げた[102]。フサイン家が支配的な勢力であったマディーナに対してはアブー・ジャアファル・ムスリムが大きな影響力を持っており、969年(イブン・アル=ジャウズィーとイブン・アル=アスィールによれば970年)には初めてファーティマ朝のカリフの名の下でフトバが読み上げられた[106]。968年頃にメッカの支配を確立したばかりであったハサン家のジャアファル・ブン・ムハンマド・アル=ハサニーは、ファーティマ朝によるエジプト征服の知らせが届くとすぐにムイッズの名においてフトバを読み上げたと言われている[107]。しかし、ナジュム・アッ=ディーン・ウマルは、ファーティマ朝のカリフの名の下でフトバを朗誦させるために972年にジャアファルに対してファーティマ朝とマディーナの連合軍が派遣されたと記録している[108]。また、イブン・アル=ジャウズィーとイブン・アル=アスィールは974年になってようやく金曜礼拝でムイッズの名が朗誦されたとしており、一方でマクリーズィーは現代では失われたファーティマ朝の公文書を基に975年と記録している[107]。いずれにせよフトバはファーティマ朝のカリフの名の下で読み上げられるようになり、さらには974年から975年にかけてメッカへの巡礼が再開された。これらのヒジャーズのアシュラーフによるファーティマ朝の支配者の地位の承認は、自らの正統性に対するファーティマ朝の主張を大きく後押しすることになった[109]。
エジプト総督としてのジャウハル
最も重要な居住地であり権力の中心地であるフスタートの占領は極めて重要な意味を持っていたものの、エジプトはまだ完全にはファーティマ朝の支配下に入っていなかった[110]。ジャアファル・ブン・ファッラーフがシリアに進出していた間、ジャウハルはカリフの代理または総督としてファーティマ朝の支配力を強化するためにエジプトに留まった。ジャウハルの任務は秩序ある統治を回復し、新しい政権を安定させ、敗北したイフシード朝軍の残存勢力を掃討し、ファーティマ朝の支配を北方(ナイルデルタ地帯)と南方(上エジプト)へ拡大することにあった[110][111]。
イフシード朝の兵士の処遇
すでに969年の時点でジャウハルはおよそ5,000人から6,000人の兵士とともにイフシーディーヤとカーフーリーヤの14人の指導者の降伏を受け入れていたが、指揮官は拘束され、軍隊は武装解除された[112]。イフシード朝の部隊、指揮官、および一般兵の資産も同様に新しい政府によって組織的に押収された[113]。
ファーティマ朝は以前のイフシード朝の兵士の忠誠を疑い、正規軍として自軍に組み入れることを拒否した[113]。例外的に一部の元イフシード朝の将軍が現地に関する優れた知識を持っていたことでエジプトにおける反乱を抑えるために新政権の初期に雇われた[114]。一方で、特に解散させられた一般兵は他の生計手段を奪われたために、ヤーコフ・レフの言葉を借りれば、非常時のための「戦闘要員の貯水池」として利用された[113]。多くは971年のカルマト派の侵略に対抗するために採用されたが、カルマト派の侵略を撃退した後、ジャウハルはこれらの兵士のうち900人を拘束した。そして974年の二度目のカルマト派の侵略に対して採用されるまで解放されなかった。かつてのイフシード朝の兵士たちは、981年になってようやくいくつかの大きな敗北を喫したファーティマ朝の軍隊を補充するために採用された。一方、エジプトから逃亡したより多くのイフシード朝の兵士は代わりにカルマト派に加わった[115]。
内政と改革
国内政策ではジャウハルは地元の支配層から恨みを買うことを避け、秩序ある行政の継続を確保するために注意を払わなければならなかった。その結果、ジャウハルはイフシード朝政権の経験豊富な実務者の大部分をそのまま残した。ジャアファル・ブン・アル=フラートは行政府の長官としてだけではなく、ワズィールとして司法長官やハティーブ(説教師)の長官と同様に留任した。ジャウハルはこれらの者を統制するためにクターマ族の監督官を任命しただけであった[116][117]。また、ジャウハルは毎週開催される各種の苦情を審理する法廷(マザーリム)を設置し、一部の税金が撤廃され、財務官庁によって不法に没収された資産が所有者に返還された[70]。
宗教問題ではジャウハルは慎重な態度をとり、イスマーイール派の儀式は徐々に導入されただけであった[68]。アムル・ブン・アル=アース・モスクでは差し当りスンニ派の儀式が維持されており、ファーティマ朝の軍営地におけるモスクとして機能していたイブン・トゥールーン・モスクでのみ、970年3月にファーティマ朝の礼拝の呼びかけ(アザーン)が導入された[116]。それにもかかわらず、969年10月にはファーティマ朝の軍隊のカーディーがスンニ派のカーディーよりも1日早くラマダーンを終わらせたために両者の間で緊張が走った[116]。また、ファーティマ朝政権は自身の宗教的な厳格さと不道徳と見なされていたイフシード朝の人々を変えさせる意図の両方を反映させるためにより厳格な道徳的規範を課した。これらの政策は政権へのスンニ派の宗教者層による高い評判を獲得することに貢献したが、いくらかの抵抗も引き起こした[118]。
さらに、ジャウハルは自身の軍営地で主君のために新しい首都(後のカイロ)の建設を始めた。イフリーキヤの首都と同様に初めはアル=マンスーリヤと名付けられ、特定の門や地区の名前までも真似て造られた[119]。そして最も重要な建築物であるアズハル・モスクは、970年4月4日にジャウハルによって起工され[102]、972年の夏に完成した[120]。
各地への宣撫とカルマト派の侵攻
ジャウハルは早ければ969年11月もしくは12月に上エジプトの盗賊団を掃討するために以前のイフシード朝の将軍であるアリー・ブン・ムハンマド・アル=ハーズィンが率いる部隊を派遣した[117]。一方でナイルデルタの状況はより不安定であった。湿地帯と地元住民の複雑な社会的、宗教的な分裂状態はクターマ族にとって馴染みのないものであったため、当初ジャウハルは以前のイフシード朝軍の将卒にも現地の経営を委ねていた。自身の部下とともにファーティマ朝に帰順したムザーヒム・ブン・ラーイクがファラマの知事に任命され、元イフシード朝軍の指揮官のティブルが重税に対する反乱を起こしたティンニースに派遣された。しかしティブルはすぐに反乱側へ寝返り、その指導者となって地元の人々に税の支払いを拒否するように働きかけた。甘言でティブルを帰参させることに失敗すると、ジャウハルはティンニースに対して別の部隊を送った。ティブルはシリアへ逃亡したものの、ファーティマ朝によって捕らえられて処刑された[114][121]。
971年9月にジャウハルはジャアファル・ブン・ファッラーフに勝利した後にエジプトへ侵攻してきたカルマト派と対峙しなければならなかった[110]。カルマト派の軍隊はフスタートへは直接進まずにデルタ地帯の東部に向かった。カルマト派の軍隊の到来はティンニースの抵抗を再燃させ、地域全体が反乱を起こした。ファーティマ朝の軍隊は一時的にファラマを奪回したが、反乱を前にしながらもカルマト派の軍隊を追跡してフスタートへ引き返さなければならなかった[110][121][122]。しかしながら、これらの出来事はフスタートへのカルマト派の攻撃を2か月遅らせることになり、フスタートの北に位置するアイン・シャムスにナイル川からムカッタムの丘まで10キロメートルにわたって伸びる防御施設と堀を準備する時間をジャウハルに与えた。ファーティマ朝の将軍はフスタートのほぼ全ての男性住民に武装を命じ、大きな損害を被ったにもかかわらず、971年12月22日と24日の二回にわたった激しい戦闘の末に撃退することに成功した。カルマト派の軍隊は敗走してパレスチナへ撤退し、退却中に多くの者がジャウハルの報奨金を目当てに殺された[123][124][125]。戦闘の2日後にイフリーキヤからアル=ハサン・ブン・アンマール・アル=カルビーが指揮する援軍が到着し、ファーティマ朝がエジプト全域の支配を確保した[121][126]。
カルマト派の侵略はティンニースとナイルデルタにおける反乱を活発化させただだけでなく、反ファーティマ朝の運動の全面的な増加へとつながった[126]。上エジプトでは以前の同盟者であるキラーブ族の指導者のアブドゥルアズィーズ・ブン・イブラーヒームがアッバース朝のカリフの名の下で反乱を起こし、これに対してヌビア人の将軍のビシャーラが指揮する遠征軍が派遣された。アブドゥルアズィーズは973年の初めに捕らえられ、檻に入れられてカイロへ移送された[126]。
ナイルデルタにおける反乱は数年間続き、ジャウハルは反乱の対処に必要な資源の消費を抑えることができなかった。しかしながら、その後ファーティマ朝が力ずくによる鎮圧を強いられたのは、アル=ハサン・ブン・アンマールの指揮の下で軍隊が派遣された972年の夏の時のみであった。カルマト派はティンニースを支援するために艦隊を派遣したが、972年9月もしくは10月に7隻のカルマト派の艦船と500人の乗組員がファーティマ朝の艦隊に捕らえられた。マクリーズィーはこれを1年後の973年6月もしくは7月の出来事と記録しており、このためティンニースに対して二回カルマト派の海軍の遠征が行われていた可能性がある。これはムイッズがカルマト派に対して二回海戦で勝利を収めたとするイブン・ズーラークの記録とも整合している[126][127]。ティンニースは最終的に屈服し、報復行為を避けるために賠償金として1,000,000ディルハムの銀貨を支払った[128]。
ジャウハルの統治の評価とその後の経過
ジャウハルの統治はエジプトの支配を確保することに概ね成功し、主にイスマーイール派の教義を課す際に慎重さと自制を見せたことで、新しい体制を地元住民に受け入れさせるという目標は大きく進展した[129] 。しかしながら、壊滅的な結果に終わったシリアへの軍事行動とカルマト派の侵略の撃退、そしてエジプトの秩序の回復に向けた継続的な努力と新しい首都の建設は、人的資源と財政の莫大な支出を伴った。また、その間の数年間の混乱は、進行中であったエジプトの農業の回復とそこから徴税する政府の能力を低下させた[130][131]。その結果、マイケル・ブレットの言葉を借りれば、「ジャウハルがフスタートの占領に成功を収めてから3年後、バグダードまで進出するという征服への期待、あるいは希望は打ち砕かれてしまった」[121]。
972年5月に再占領したラムラを除き、シリアの大部分はファーティマ朝の支配の外に留まった[102]。さらにそれだけではなく、ファーティマ朝は974年にカルマト派による二度目のエジプトへの侵攻に立ち向かわなければならなかった。再びナイルデルタ地帯がカルマト派に占領され、その間にアブー・ジャアファル・ムスリムの兄弟であるアフー・ムスリムに率いられたカルマト派の別働隊がカイロを迂回してアシュートとアフミームの間の地点に拠点を作った。アフー・ムスリムの到来はそれまで友好的であったファーティマ朝とアシュラーフの関係を乱し、多くの著名なアシュラーフの一族の若い後継者たちがアフー・ムスリムの下に向かった。ファーティマ朝は再度首都の住民に武装を命じ、ムイッズの息子の一人であるアブドゥッラーの部隊がカルマト派の主力部隊を破壊することに成功した[128][132]。最終的にファーティマ朝は二度目のカルマト派の襲撃を撃退したものの、ダマスクスを占領してシリアの大部分へ支配を拡大することに成功したのは、ムイッズの後継者であるアル=アズィーズ・ビッラーフ(在位:975年 - 996年)の治世となってからであった[102][133][134]。
エジプトへの遷都
最初のカルマト派の攻撃を撃退した後、地方の混乱が続いていたにもかかわらず、ジャウハルは主君のムイッズを迎えるにあたってエジプトが十分に鎮静化していると判断した[135]。ファーティマ朝のカリフは宮廷全体、財宝、そして先祖の棺までも含むイフリーキヤからエジプトへの移動の準備を始めた[128][136]。長い準備の末にファーティマ朝の支配者とその随行団は972年8月5日にイフリーキヤのマンスーリヤを出発し、アイン・ジェルーラに近いサルダーニヤに向かった。そこで次の4か月の間にカリフへの随行を望んだファーティマ朝の支持者たちが一団に加わってきた[137]。10月2日にムイッズはブルッギーン・ブン・ズィーリーをイフリーキヤの総督に任命した[138][注 9]。11月14日、人々と動物たちの巨大な隊列がエジプトに向けて出発し、973年5月30日にアレクサンドリア、続いて6月7日にギーザに到着した[140]。途中、アブー・ジャアファル・ムスリムが率いる地元の名士の代表団と合流し、旅の最終段階で同行した[141]。6月10日にムイッズはナイル川を渡り、フスタートとそこで準備されていた祝賀祭を無視して新しい首都に直行した。ムイッズはその都市の名前をカイロの名で知られるアル=カーヒラ・アル=ムイッズィーヤ(ムイッズの勝利)と改名した[141][142]。
ファーティマ朝のカリフとその宮廷の到着はエジプトの歴史における重要な転換点であった。すでに先行したトゥールーン朝とイフシード朝政権の間にエジプトはプトレマイオス朝以来初めて独立した政体の中心地となり、自立した一大地域勢力として浮上していた。それにもかかわらず、これらの政権の野心は地域的なものに留まり、その野心はアッバース朝の宗主権の範囲に留まっていた政権の支配者の人格と結びついていた。これとは対照的にファーティマ朝政権はアッバース朝に対して明確な敵対姿勢を取り、イスラーム世界の統一という自身に与えられた宗教的な使命を帯びて、拡大主義的であるとともに革命的な勢力であることを示した[143]。この出来事は東方のイスラーム世界における十二イマーム派とスンニ派の発展にも影響を与えた。ファーティマ朝がイスラーム世界における指導者の地位を真剣に主張する存在として現れたために、他のシーア派、特に最大の宗派である十二イマーム派はイスマーイール派のファーティマ朝との差別化を余儀なくされ、独自の教義、儀式、祭礼を特徴とする明確に異なる集団となることでより一層分離が進んでいった。さらにスンニ派の間でも同じような変化を促され、アッバース朝のカリフのカーディル(在位:991年 - 1031年)によってスンニ派の教義と反シーア派を掲げた綱領が成文化されるに至った。その結果として、シーア派とスンニ派の間で相互に排他的な集団となる形で分断が固定化した。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディが記しているように、「もはや単なるイスラーム教徒でいることは不可能だった。スンニ派かシーア派のどちらか一方であった」[144]。
エジプト征服から2世紀後の1171年にサラーフッディーンによってファーティマ朝の支配は終焉を迎え、結果としてファーティマ朝は野心の実現に失敗した。そしてエジプトでスンニ派による統治とアッバース朝の宗主権が復活した[145]。それでもなお、ファーティマ朝はエジプトを変容させ、普遍的な帝国の中心地としてのカイロの基礎を築いた。それ以来カイロはイスラーム世界の主要な中心地の一つであり続けている[146]。
注釈
- ^ カルマト派は最終的にファーティマ朝を誕生させたイスマーイール派と同じ地下運動に起源を持っているものの、後に初代のファーティマ朝のカリフとなるアブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフが導入した革新的な教義を受け入れず、899年にその一派から離脱した[25][26]。同時代のイスラーム教徒による史料と一部の現代の学者はカルマト派がファーティマ朝と秘密裏に連携して攻撃していたと考えているが、この考えは反証を挙げられている[27]。ファーティマ朝は各地に散在するカルマト派の共同体にファーティマ朝の指導的な地位を認めさせようといくつかの試みを実行に移した。これらの試みは一部の地域では成功したものの、バフライン(東アラビア)のカルマト派は頑なに認めることを拒否した[28]。
- ^ サハラ以南との貿易、鋳造前の金の輸入、およびファーティマ朝の財政慣行がもたらした影響についての議論は、Brett 2001, pp. 243–266を参照のこと。
- ^ 宗派の勢力を拡大させることを目的とした国家組織の存在はファーティマ朝に独特なものであった。このような組織の存在はファーティマ朝によるイスラーム世界の統一を目指す活動の一環であるだけではなく、少数派であるイスマーイール派が教勢を維持するために継続的な教宣活動が必要であったことを示すものであると考えられている[59]。
- ^ 968年にシチリア島の総督のアフマド・ブン・アル=ハサン・アル=カルビーがエジプトへの遠征に向かう一部の海軍を率いるために家族とその財産とともに呼び戻された。アフマドは30隻の船とともにタラーブルスに到着したが、その後すぐに病に倒れて死去した[49]。史料では実際の征服時における海軍の活動については言及されておらず、征服から最も近い時点でイフリーキヤからエジプトに到着したファーティマ朝の艦隊についての言及がみられるのは972年の6月もしくは7月になってからである[71][72]。
- ^ 地元のイスラーム教徒はスンニ派が圧倒的に多数派であったにもかかわらず、アシュラーフ(ムハンマドの親族に連なる家系であると主張する人々)はエジプトで例外的に高い立場を享受し、アシュラーフの著名な人物はしばしば政治的な争いの調停役として求められた[79]。ファーティマ朝は地元住民と一体となったその影響力だけでなく、メッカとマディーナにいる近縁者のアシュラーフによって支配者の地位を認められることが重要であったために、積極的にアシュラーフの関与を求め、イスラーム世界における正当な指導者の地位に関するファーティマ朝の主張への後押しを得ようと注意を払っていた[80]。
- ^ この時のアマーンの文章は同時代のエジプトの歴史家であるイブン・ズーラーク(997年没)によって記録された。アマーンの詳細と、主として目撃者の証言からなるファーティマ朝による征服と最初の数年間の支配に関するイブン・ズーラークの記録は、イブン・サイード・アル=マグリビー、マクリーズィー、そしてイドリース・イマードゥッディーンなどによる、後の時代のほとんどすべての説明の基礎史料となっている[83][84]。マクリーズィーの引用によって伝えられているアマーンの文章については、Jiwa 2009, pp. 68–72を参照のこと。
- ^ ファーティマ朝の色はアッバース朝の黒とは対照的に白であったが、他に赤と黄色の旗がカリフ個人と結びつく形で存在していた。特定の重要な行事でカリフは赤い衣装に身を包み、両側には赤と黄色の旗が掲げられていたと考えられている[93]。
- ^ 近代以前の中東地域では、フトバで支配者の名前を読み上げることは支配者の持つ二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[97]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[98]。
- ^ ファーティマ朝の宮廷がエジプトに移ったことで、結果として急速にイフリーキヤとシチリアに対する実質的な支配が失われた。その後の数十年でズィール朝とカルブ朝が事実上独立し、ファーティマ朝と敵対するまでになった[139]。
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