ノヴィ・ベオグラード 住民

ノヴィ・ベオグラード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 04:17 UTC 版)

住民

ウシュチェ塔

ノヴィ・ベオグラード域内すべてがベオグラード市街地に含まれており、行政的にこれに含まれない集落は存在しない。ノヴィ・ベオグラード区議会庁舎の付近がノヴィ・ベオグラードの中心とみなされている。

建設が始まったのは1948年のことであったが、その後ノヴィ・ベオグラードは急速な人口増加を経験した。しかし2002年の国勢調査ではノヴィ・ベオグラードの人口は10年前と比べて減少を見せている。2011年12月31日の人口は21万2,104人となっているが、これに加えて戦争によって住む場所を追われてクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナコソボから避難してきた居住者もいる。

ノヴィ・ベオグラードの人口推移は以下のとおりである:

  • 1953年(国勢調査) - 11,339人
  • 1961年(国勢調査) - 33,347人
  • 1971年(国勢調査) - 92,500人
  • 1981年(国勢調査) - 173,541人
  • 1991年(国勢調査) - 218,633人
  • 2002年(国勢調査) - 217,773人
  • 2011年(国勢調査) - 212,104人

民族別

ベオグラード・アリーナ

2002年の国勢調査による、ノヴィ・ベオグラードの住民の民族別構成は以下のとおりである:

地区

ノヴィ・ベオグラードの地図

ノヴィ・ベオグラード自治体は複数の地区にわかれており、このうちベジャニヤ(Bežanija)とスタロ・サイミシュテ(Staro Sajmište)を除いては無人地であったため、歴史的な呼称がない。しかし1948年の開発から半世紀以上が経過し、地区の特色もはっきりしてきている。

ノヴィ・ベオグラードには以下の地区がある]

更に、ベオグラード臨空都市(Airport City Belgrade)、デルタ・シティ(Delta City)、サヴァ・シティ(Sava City)、ウニヴェルジテツコ・セロ(Univerzitetsko Selo)などの地区が開発中である。

歴史

起源

セルビア正教会の聖堂

この地域における人の居住は、オスマン帝国統治時代の文献に記されている。1713年の書籍によると、この地域には早ければ1512年には「ベジャニヤ」と呼ばれるセルビア人の村落が存在していたとされている。この文献によると当時は32世帯の民家があったとされ、その数は1810年には115世帯まで増加している。

18世紀を通じてベジャニヤの人口の大部分はセルビア人であった。オスマン帝国の撤退後、新たにこの地の支配者となったオーストリア帝国ドイツ人ハンガリー人クロアチア人などの移住を進めた。

20世紀の戦間期には、よりサヴァ川に近い場所に新たにサイミシュテおよびノヴォ・ナセリェ(Novo Naselje)という集落が誕生した。初めてベオグラードの市街地がサヴァ川を超えて左岸にまで進出してきたのは1923年のことであったが、泥濘地を居住に適した環境に変えるのに十分な人出も資金もなく、大きな進展は起こらなかった。1924年にペタル・ココトヴィッチ(Petar Kokotović)という人物がトシン・ブナル地区に、この地の未来を予言するかのような「ノヴィ・ベオグラード」という名前のカファナを開業した。1945年、ココトヴィッチはノヴォ・ナセリェおよびベジャニヤ地区の村長となり、やがてこの「村」はノヴィ・ベオグラード自治体へと発展することとなる[3]。1924年にベジャニヤに空港が作られ、1928年にロゴジェルスキ(Rogožerski)という工場ができた。1929年にゼムンベオグラードと行政的に統合され、1934年に独立した都市としての地位を失うと、ベオグラードとゼムンの間を埋める新しい市街地の開発が構想される。この時代にサヴァ川を渡る橋が築かれ、ゼムンとベオグラードとを結ぶ路面電車の運行も始まる。また、ゼムン空港が築かれた。

1938年にスタロ・サイミシュテ(Staro Sajmište)に多数の建造物が築かれる。1万5千平方メートルにおよぶこの建造物群は、ユーゴスラビア王国の経済発展を示す見本市や展覧会の会場として造られた。同じ年にベオグラード市政府は、新しい市街地を建造するためにデンマークの建設企業KampsaxおよびHøjgaard & Schultzと契約した。技術者のブラニスラヴ・ネシッチ(Branislav Nešić)が、計画を指揮する立場となった。ネシッチは、ユーゴスラビア王国が枢軸勢力に占領される1941年以降も計画の推進にあたり、そのために1945年に共産主義者が枢軸勢力を駆逐した後、通敵者として裁判を受けることとなった。

カレメグダン宮殿から見たサヴァ川とノヴィ・ベオグラード

サイミシュテ強制収容所

1941年、ドイツ軍がユーゴスラビア王国の大部分を制圧し、占領下に置く。ナチス・ドイツの秘密警察・ゲシュタポがサイミシュテを支配下に置き、地区を有刺鉄線で幾重にも覆う。この場所はその後絶滅収容所となった。

1942年、ドイツ人はサイミシュテ強制収容所を、ベオグラードやその他の場所に住むユダヤ人を殺害する目的で使用する。1942年4月以降、サイミシュテ強制収容所の囚人は、ナチス・ドイツの傀儡国家・クロアチア独立国が運営するヤセノヴァツ強制収容所スタラ・グラディシュカ強制収容所へと移送された。セルビアで枢軸勢力に捕らえられたパルティザン兵士や、その他のユーゴスラビア諸地域からも多くの人々がサイミシュテに送られた。強制収容所では最後まで囚人の殺害が途絶えることはなかった。

囚人にはコザラ(Kozara)地方に住んでいた女性や子ども、老人や、ベオグラードなどの街に住むユダヤ人の一家、ロマの一家や、スレム地方の複数の村の村民がまるごと捕らえられていたケースもあった。

1946年11月に、占領者および協力者の犯罪に関するユーゴスラビア国家委員会が発表した報告によると、10万人近くの人物がサイミシュテに送られ、うち4万8千人が収容所内で死亡したとしている。

1987年7月9日、ベオグラード市議会はスタロ・サイミシュテを文化遺産とし、急速な不動産開発から保護することを決めた。1995年4月21日、サヴァ川沿いにサイミシュテ強制収容所の犠牲者を記念する記念碑が除幕された。

急速な開発

「セルビア宮殿」

第二次世界大戦終戦から3年が経過した1948年4月11日、この地は巨大な開発計画の対象となり、これが今日のノヴィ・ベオグラードの誕生の瞬間であった。

次々と建造物が立ち並び、1952年にはノヴィ・ベオグラード自治体が発足した。1955年にベジャニヤ自治体はノヴィ・ベオグラード自治体に統合される。これはこの時代のユーゴスラビア連邦人民共和国における最大の開発計画であり、共産主義政府の威信をかけたプロジェクトであった。

計画の最初の3年間で10万人を超える労働力が投入され、枢軸支配から解放されたばかりのユーゴスラビア各地から技術者が集まり、建造計画が進められた。肉体労働に従事する労働者の多くは、セルビアのいなかから集められた人々であった。十分な機材もないまま、コンクリートは手作業で混合され、一部で馬を用いつつ人力で砂を運び、泥濘地に撒き、整地が進められた。

乗馬警察官

建造が始まる前段階として、川沿いに砂を盛り、川の水と陸地を分離し、泥濘地を乾かす作業が行われた。

この地に築かれた初期の建造物のひとつが、ユーゴスラビア連邦議会が入居するユーゴスラビア首相府の庁舎であった。庁舎は7万5千平方メートルの敷地を持ち、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊後はユーゴスラビア連邦共和国の議会が使用した。その後この建物はセルビア宮殿と改称され、一部のセルビア政府の機関が使用している。

居住目的で造られた初めての建物は、トシン・ブナル地区に築かれた。ストゥデンツキ・グラード(Studentski Grad)地区は、増大するベオグラード大学の学生の居住地として築かれた。


  1. ^ http://media.popis2011.stat.rs/2011/prvi_rezultati.pdf
  2. ^ “Srpska prestonica u brojkama” (Serbian), Politika: 30, (2008-04-26) 
  3. ^ “Bitka za Beograd” (Serbian), Politika: 11, (2008-04-11) 
  4. ^ Međunarodna saradnja Novi Beograd, Retrieved on 2008-07-17.





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