ドゥル・シャルキン 歴史

ドゥル・シャルキン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/17 09:24 UTC 版)

歴史

ボッタの発掘で発見されたラマス像。ルーブル美術館収蔵。
新アッシリア時代のメソポタミア(地名はフランス語表記)。

ドゥル・シャルキンはサルゴン2世(シャルキン2世)によって建設された[1]。サルゴン2世は前722年から前705年まで在位したアッシリアの王である。 前713年の段階で、サルゴン2世は遠征の成功によって財政を強化しており、新たな首都とすることを意図してドゥル・シャルキンの建設に取り掛かった。

他のアッシリア王たちによる遷都の試み(例えばアッシュル・ナツィルパル2世カルフの改修や、サルゴン2世死後のセンナケリブによるニネヴェへの遷都など)とは異なり、ドゥル・シャルキンは既存の都市を拡張するのではなく、全くの新都市を建設する試みであった。サルゴンが決めたドゥル・シャルキンの建設位置はカルフにきわめて近く、アッシリア帝国の中心地としてふさわしい(とサルゴンが考えた)場所であった[2]

この計画は壮大な事業であり、サルゴン2世はこの新都市の建設を、自身の最大の業績とすることを意図していた。ドゥル・シャルキンが建設された土地は、それまではすぐそばにあるマガヌッバ(Maganubba)村の村民が所有していた土地であった。ドゥル・シャルキンに設立され発見された碑文では、サルゴン2世は意気揚々とこの土地が最適であると認めると主張しており、マガヌッバの村民に適切な市場価格を支払って土地を取得したことを強調している。

ほぼ3平方キロメートルの計画区域を持つこの都市はアッシリア最大の都市になる予定であり、サルゴン2世は都市の人口を維持するために必要になるであろう膨大な農業用水を確保するため、灌漑プロジェクトを開始した[2]。サルゴン2世はこの建設計画に深く関与しており、カルフの宮廷においてエジプトクシュ)の使節を饗応している際も、常にそれを監督していた[3]。カルフの総督に宛てた一通の書簡において、サルゴン2世は次のように書いている。

カルフ総督に対する王の言葉。700俵の藁と700束の葦(それぞれロバが運ぶことができるより多くの束)はキスレヴ(Kislev)の月の初めまでにドゥル・シャルキンに到着しなければならない。一日でも遅れたならば其方は死ぬであろう[3]

ドゥル・シャルキンの計画図はカルフからインスピレーションを得ていたが、この二つの都市計画は同一ではなかった。カルフはアッシュル・ナツィルパル2世によって大規模な再開発が行われたが、それでもなお幾らかは自然に成長した居住地であった。全く対照的に、ドゥル・シャルキンにおいては、建設地周辺の景観は考慮されていない。二つの巨大な基壇(1つは王宮の武器庫の建物、もう一つは宮殿と神殿の建物)、要塞化された市壁、7つの記念碑的な門、これら都市にある全てのものが完全にゼロから建設されている。これらの市門は既存の帝国内の道路網を考慮することなく一定の間隔で置かれていた[2]

ドゥル・シャルキンのサルゴン2世宮殿は、それまでのアッシリア王が建てた宮殿の中で最大かつ最も装飾豊かな宮殿であった[2]。浮彫が宮殿の壁面を飾り、サルゴン2世の征服の場面、特にウラルトゥ遠征とムサシルの略奪が詳細に描かれていた[3]。彼はドゥル・シャルキンを建造するために必要な木材や資材、そして職人をフェニキアから調達したことが同時代のアッシリアの手紙に記録されている。十分な労働者を確保するため、建設従事者の負債は免除された。ドゥル・シャルキンの周囲は耕作され、アッシリアで供給が十分ではなかった油製品の生産を増大させるためにオリーブの木が植えられた。この都市は前706年に至る10年程の間に建設が進められたが、宮廷が遷った時にはまだ工事は完了していなかった。

だが、サルゴン2世は前705年に戦死してしまった。跡を継いだアッシリア王センナケリブ(サルゴン2世の息子)は父の不意の死の後、ドゥル・シャルキンの建設計画を破棄し、首都を行政府と共に20キロメートル南のニネヴェに遷した。この戦死は、サルゴン2世が過去に犯したいくつかの悪行のために、神々が彼を罰したのだと考えられたからである。しかも、サルゴン2世の遺体を回収することができなかった。メソポタミアの神話では、戦場に倒れ埋葬されなかった者の死後の世界は悲惨であり、永遠に物乞いの如く苦しむ運命にあった。父の運命に対するセンナケリブの反応はサルゴン2世から距離を取ることであった[4]。ドゥル・シャルキンは完成することはなく、1世紀後にアッシリアが滅亡すると共に放棄された[5]

ISIL(イスラーム国)による破壊

モースルのクルド人勢力当局者サイイド・マムジーニ(Saeed Mamuzini)によると、2015年3月8日にISIL(イスラーム国)がドゥル・シャルキンの略奪と破壊英語版を開始したと伝えられている[6]。同日、イラク観光考古省(The Iraqi Tourism and Antiquities Ministry)が関連する調査を開始した[6]


  1. ^ 渡辺 1998, p. 338
  2. ^ a b c d Radner 2012.
  3. ^ a b c Mark 2014.
  4. ^ Frahm, Eckart (2008). “The Great City: Nineveh in the Age of Sennacherib”. Journal of the Canadian Society for Mesopotamian Studies 3: 13–20.
    (「カナダメソポタミア研究協会誌」第3巻(2008年)p.13-20に収録されている『偉大な都市:センナケリブ時代のニネヴェ』(著:エッカート・フラーム))
  5. ^ Marc Van De Mieroop, A History of the Ancient Near East ca. 3000 - 323 BC, (Wiley-Blackwell) 2006, ISBN 1-4051-4911-6
    (『古代近東の歴史:紀元前3000年~紀元前323年』(マーク・ヴァン・デ・ミエロープ、2006年、ウィリー・ブラックウェル出版(米国))
  6. ^ a b Ancient site Khorsabad attacked by Islamic State: reports”. Toronto Star (2015年3月8日). 2015年3月8日閲覧。
    (『レポート:ISに攻撃されたホルサバードの古代遺跡』(2015年3月8日、トロント・スター(カナダの新聞)))
  7. ^ Andreas Fuchs, Die Inschriften Sargons II. aus Khorsabad, 42:65; 294f, 1994, Cuvillier.
    (『ホルサバード出土のサルゴン2世の碑文』(著:アンドレアス・フックス、1994年、キュビリエ出版(ドイツ)))
    エッカート・フラーム(Eckart Frahm)による次の議論を参照。"Observations on the Name and Age of Sargon II and on Some Patterns of Assyrian Royal Onomastics," NABU 2005-2.44
    (『サルゴン2世の名前と時代、アッシリア王家の姓名に関する考察』(『簡潔・有用なアッシリア学ニュース』(Nouvelles Assyriologiques Brèves et Utilitaires)、2005年・第2回、44ページ))
  8. ^ ハッティ(Hatti)はこの文脈では新ヒッタイト諸王国が支配していたユーフラテス川より西方の領域全体を指す
  9. ^ Daniel David Luckenbill, Ancient Records of Assyria and Babylonia, vol II:242, quoted in Robin Lane Fox, Travelling Heroes in the Epic Age of Homer 2008, pp26f.
    (『ホメロスの叙事詩時代の英雄を旅する』(著:ロビン・レイン・フォックス、2008年)p26で引用されている『アッシリアとバビロニアの古代の記録』(著:ダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル)第2巻p.242)
  10. ^ Lane Fox 2008:27; texts are in Luckenbill 1927:II.
    (『ホメロスの叙事詩時代の英雄を旅する』(著:ロビン・レイン・フォックス、2008年)p27)
  11. ^ Lane Fox 2008:27, noting D. Stronach, "The Garden as a political statement: some case-studies from the Near East in the first millennium BC", Bulletin of the Asia Institute 4 (1990:171-80). The garden mount first documented at Dur-Sharrukin was to have a long career in the history of gardening.
    (『ホメロスの叙事詩時代の英雄を旅する』(著:ロビン・レイン・フォックス、2008年)p27で言及している『政治メッセージとしての庭園:紀元前一千年紀の近東におけるケーススタディ』(アジア学会会報 第4号(1990年)p.171~180に収録)より。ドゥル・シャルキンで初めて記録された庭園は、庭園史において長い歴史を持つ)
  12. ^ Massimo Cultraro, Francesco Gabellone, Giuseppe Scardozzi, Integrated Methodologies and Technologies for the Reconstructive Study of Dur-Sharrukin (Iraq), XXI International CIPA Symposium, 2007
    (『ドゥル・シャルキンの復元研究に関する方法論と科学技術の統合』(著:マッシモ・クルトラーロ、フランセッソ・ガベッローネ、ジュゼッペ・Scardozzi、2007年、建築写真測量国際委員会シンポジウム))
  13. ^ Paul Emile Botta and Eugene Flandin, Monument de Ninive, in 5 volumes, Imprimerie nationale, 1946-50
    (『ニネヴェの遺跡』(全5巻)(著:ポール=エミール・ボッタ、ウジェーヌ・フランダン、1946~1950年、フランス政府出版局))
  14. ^ Eleanor Guralnick, New drawings of Khorsabad sculptures by Paul Émile Botta, Revue d'assyriologie et d'archéologie orientale, vol. 95, pp. 23-56, 2002
    (『新たに発見された、ポール=エミール・ボッタによるホルサバードの彫刻の新たなスケッチ』(著:エレノア・グラルニック、2002年、「アッシリア学・オリエント考古学専門誌」第95号、p23-56に収録))
  15. ^ Victor Place, Nineve et l'Assyie, in 3 volumes, Imprimerie impériale, 1867–1879
    (『ニネヴェとアッシリア』(全3巻)(著:ヴィクター・プレイス、1867年~1879年))
  16. ^ Joseph Bonomi, Ninevah and Its Palaces: The Discoveries of Botta and Layard, Applied to the Elucidation of Holy Writ, Bohn, 1957 (2003 Reprint, Gorgias Press LLC, ISBN 1-59333-067-7)
    (『ニネヴェとその宮殿:ボッタとレイヤードの発見、聖書分析への応用』(著:ジョセフ・ボノミ、1957年、2003年にゴルギアス出版(米国)から再版))
  17. ^ Robert William Rogers, A history of Babylonia and Assyria: Volume 1, Abingdon Press, 1915
    (『バビロニアとアッシリアの歴史』(著:ロバート・ウィリアム・ロジャー、1915年、アビンドン出版(米国))
  18. ^ [1] OIC 16. Tell Asmar, Khafaje and Khorsabad: Second Preliminary Report of the Iraq Expedition, Henri Frankfort, 1933
    (OIC(Oriental Institute Communications:東洋研究所通信(シカゴ大学))第16号 『テル・アスマル、ハファージェとホルサバード:イラク探検の第2回速報』(著:ヘンリ・フランクフォート、1933年));
    [2] OIC 17. Iraq Excavations of the Oriental Institute 1932/33: Third Preliminary Report of the Iraq Expedition, Henri Frankfort, 1934
    (OIC(Oriental Institute Communications:東洋研究所通信(シカゴ大学))第17号 『イラク探検の第3回速報』(著:ヘンリ・フランクフォート、1934年));
    [3] Gordon Loud, Khorsabad, Part 1: Excavations in the Palace and at a City Gate, Oriental Institute Publications 38, University of Chicago Press, 1936
    (『ホルサバード 第1部 宮殿と市門の発掘』(著:ゴードン・ラウド、1936年、東洋研究所出版第38号、シカゴ大学出版));
    [4] Gordon Loud and Charles B. Altman, Khorsabad, Part 2: The Citadel and the Town, Oriental Institute Publications 40, University of Chicago Press, 1938
    (『ホルサバード 第2部 城塞と街』(著:ゴードン・ラウド、1936年、東洋研究所出版第38号、シカゴ大学出版))
  19. ^ 関根 (1964) pp.126-127
  20. ^ Fuad Safar, "The Temple of Sibitti at Khorsabad", Sumer 13 (1957:219-21).
    (『シュメール』(アラブ世界の考古学・歴史雑誌、編:イラク政府古代文化財省)第13巻(1957年)p.219-221に収録されている『シビッティとホルサバードの神殿』(著:フアド・サファー))






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