トマス・パウナル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/05 00:29 UTC 版)
マサチューセッツ植民地総督
パウナルは8月初めにボストンに到着した。暖かく歓迎され、8月3日に任務に就いた[28]。その後すぐに戦争に関わる危機に突入することになった。フランス軍がニューヨーク北部のウィリアム・ヘンリー砦に向かって進軍しているとの報告があり、そこの軍隊指揮官が民兵隊に非常収集を掛けていた。パウナルは民兵隊を組織するために精力的に動いたが、その掛け声があまりに遅すぎた。ウィリアム・ヘンリー砦は短時日の包囲後に陥落し、その後でインディアンによるこの戦争では最悪級の残虐行為が起こった[29]。
1757年9月、パウナルはニュージャージー植民地に旅してジョナサン・ベルチャー総督の葬儀に出席し、帰りはニューヨークに立ち寄ってラウドンと会見した。総司令官であるラウドンは、マサチューセッツ植民地議会がラウドンの出した様々な要求に対して十分に応えなかったことに不満であり、パウナルにその責任を押し付けた。パウナルは民事に軍隊が介入することに反対し、ラウドンが自分の考えを実行するために使った脅しは、総督が指導していくためには必要であるとしても、植民地議会を動かすためではないと主張した[30]。その会見は辛辣なものとなり、ラウドンは後にパウナルの姿勢を厳しく批判する手紙をロンドンに送り、自分の考えを政府の「高飛車な」ものにすることを求めた[31]。ラウドンはイギリス軍がボストンの市民の家を宿とするよう要求したことに対して植民地議会からの反対に遭遇し、援軍を用意して行軍させ、力づくで宿舎を確保すると脅した[32]。パウナルは植民地議会がある面ではラウドンの要求に応ずるよう要求し、最後は宿屋など公的な空間に兵士を泊めることを承認する法案に署名した。この法案は不人気であり、パウナルは、地元新聞からラウドンとその政策を支持したと否定的に報道された[33]。しかしパウナルとラウドンのやり取りは、パウナルが植民地の立場を痛切に感じ取っていたことを示していた。「この植民地の住人はイギリス生まれの臣民が持つ自然権を付加されている。...これらの権利を享受することは、...彼らが抵抗することを励まし勇気づける...残酷な侵略してくる敵に対して」と記した[34]。パウナルは王室の指名する総督と議会の関係について同様にはっきりしていた。「総督は民衆を「追い立て」られないことについて民衆を「導く」努力をせねばならず、一歩一歩「足場を得られる」ように彼らを導かねばならない。」と記した[35]。パウナルがこれらの考えで行動したので、辞任を提案された。しかし、ラウドンはパウナルにその地位に留まるよう進言した[36]。パウナルは後にイギリス議会の法案である1765年宿舎法の一部を執筆したが、その法の執行は植民地で広く抵抗された[37]。
1758年1月、パウナルはイギリスのウィリアム・ピットに宛てて数通の手紙を書き、植民地政府とイギリスの軍隊と文民の管理当局の間の関係を取り巻く難しい問題を説明した[38]。具体的にロンドンが戦争のために植民地が遣う費用をより多く支払うよう提案した。この考えを実行するには、戦争の残り期間で民兵の徴兵数をかなり増やすことになり、1758年の作戦だけでもマサチューセッツから7,000名を徴兵することになった[39]。パウナルは民兵体系の改革を行う法案を議会に通させることができた。この法案は、パウナルがより柔軟で費用のかからない組織を得るために求めた変更の全てを含んでは居らず、地方の役人の手に民兵に関する権限を多く集中させるものだった(総督の支配権を減らしていた)[40]。
これらの改革にも拘わらず、民兵の徴兵は難しく、徴兵隊が嫌がらせを受け、石を投げられることも多く、幾つかの場合には暴動も起きた[41]。しかしパウナルは植民地に割り当てられただけの民兵隊立ち上げに成功し、戦争遂行を精力的に支援したことで、ウィリアム・ピット、貿易委員会、また軍隊の新しい総司令官ジェームズ・アバークロンビーからの称賛も得た[42]。パウナルはこの成功に力を得て、ジェフリー・アマースト将軍に、ペノブスコット湾でフランス軍が動き出す可能性に対抗して砦を建設するというアイディアを提案した[43]。その地域は1755年以来度々フロンティアに対する襲撃が繰り返されており、1758年春にはセントジョージに対する大きな攻撃があったばかりだった[44]。このアイディアはその地域への大きな遠征にまで発展し、アマーストの承認を得ただけでなく、議会の承認も得た。パウナルが遠征を率い、パウナル砦の建設を監督し、同年の大きな成功に数えた[45]。その成功でこの地域には小さいながらランドラッシュが起こった[46]。
パウナルの政権初期は幾分障害があったが、その植民地における人気が、在任が長くなるに連れて大きくなった。多くの漁師の需要について熱心に取り組み、軍事当局を説得して重荷になるお役所仕事を排除させ、地元の商人とも付き合った。トマス・ハンコックとその甥のジョン・ハンコックが行う事業に投資しており、マサチューセッツを離れる時は、その商人集団に称賛された[47]。パウナルは独身であり、女好きで、社交界でもてはやされたとされている[48]。信仰心は強くなかったが、定期的にイングランド国教会の礼拝に出席した。ただし、土地の会衆派教会の礼拝にも度々訪れていた[49]。民兵隊の徴兵、配置、物資調達を取り巻く異論の多い問題をうまく繕い、軍隊と植民地の要求の間で妥協点を交渉した[50]。しかし、副総督トマス・ハッチンソンとの関係は歪が生じた。この二人は互いを信頼することがなく、パウナルは内部の評議会会合からハッチンソンを定期的に排除し、その代りに例えば民兵の徴兵問題を扱わせるなど、任務を与えて派遣していた[51]。パウナルが植民地を去る前に最後に行ったことは、長くハッチンソンの敵対者だったジェイムズ・オーティス・シニアを議会議長に指名することを承認したことだった[52]。
1759年の後半、パウナルはウィリアム・ピットに手紙を書き、「私は(イングランドで)役立てることがあるかもしれない」とマサチューセッツを去ってイングランドに戻してもらうことを依頼した[46]。伝記作者のジョン・シュッツは、パウナルの要請の下にある真の理由は戦争の後半で大きな軍事行動から除外されたことからくる憤懣に関連し、また征服されたヌーベルフランスの軍政府司令官というようなより重要な地位を得たいという願望があった可能性もあった、と推測している[53]。歴史家のバーナード・ベイリンは、トマス・ハッチンソンのようなシャーリーの支持者を決定的に嫌悪し、信用しなかったことと、そのためにマサチューセッツ政治での内紛が要請に繋がったのであり、軍隊指揮官との難しい関係も災いしたという意見である[54]。その理由が何であれ、イギリス王ジョージ2世の死去に伴い、貿易委員会が植民地の役職者を入れ替えようと考え、パウナルにはサウスカロライナ植民地総督の地位が与えられ、まずはイングランドに行く許可が与えられた。民兵の徴兵問題とボストン市の大火の後始末の必要性のためにボストン出発が遅れ、実際に出発したのは1760年6月になってからだった[53]。
- ^ Adams, p. 243
- ^ Schutz, pp. 18–19
- ^ "Thomas Pownall (PWNL739T)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ Schutz, pp. 26–28
- ^ Schutz, p. 20
- ^ Schutz, pp. 21–22
- ^ Pownall, pp. 5, 41–42
- ^ Schultz, pp. 34–35
- ^ Schultz, pp. 37–38
- ^ a b Schultz, pp. 41–48
- ^ Rogers, p. 24
- ^ Schutz, pp. 43–44
- ^ a b Schutz, p. 49
- ^ Schutz, p. 51
- ^ Schutz, p. 53
- ^ Rogers, p. 25
- ^ Schutz, p. 55
- ^ Schutz, p. 58
- ^ Schutz, p. 60
- ^ Schutz, pp. 60–67
- ^ Schutz, pp. 68–69
- ^ Schutz, pp. 69–70
- ^ Schutz, p. 71
- ^ Schutz, pp. 74–78
- ^ Schutz, p. 78
- ^ Schutz, pp. 78–83
- ^ Schutz, p. 84
- ^ Schutz, pp. 85–87
- ^ Schutz, pp. 89–96
- ^ Schutz, pp. 105–108
- ^ Schutz, pp. 109–110
- ^ Schutz, p. 115
- ^ Rogers, pp. 86–87
- ^ Schutz, p. 116
- ^ Schutz, pp. 116–117
- ^ Schutz, p. 117
- ^ Rogers, p. 88
- ^ Schutz, pp. 118–119
- ^ Schutz, p. 128
- ^ Schutz, pp. 121–123
- ^ Schutz, p. 130
- ^ Schutz, p. 151
- ^ Schutz, p. 152
- ^ Bourque, pp. 200–203
- ^ Schutz, p. 166–172
- ^ a b Schutz, p. 174
- ^ Schutz, pp. 155–156
- ^ Schutz, p. 154
- ^ Schutz, p. 157
- ^ Schutz, pp. 162–166
- ^ Waters and Schutz, p. 556
- ^ Waters and Schutz, p. 557
- ^ a b Schutz, p. 175
- ^ a b Bailyn, p. 44
- ^ Schutz, pp. 182, 197
- ^ Schutz, p. 197
- ^ Schutz, pp. 181, 194, 293
- ^ Schutz, pp. 182–194
- ^ Pownall, Administration of the Colonies, 4th edn, 1768, p. 174
- ^ http://www.bernardoconnor.org.uk/Everton/Thomas%20Pownall.htm
- ^ Schutz, p. 198
- ^ Schutz, p. 199
- ^ Schutz, p. 200
- ^ Schutz, p. 202
- ^ Schutz, p. 203
- ^ Schutz, p. 213
- ^ Schutz, pp. 219–220
- ^ Schutz, p. 226
- ^ Schutz, pp. 228–229
- ^ Schutz, pp. 230–232
- ^ Schutz, pp. 234–236
- ^ Schutz, p. 237
- ^ Pownall, p. 264
- ^ Schutz, p. 241
- ^ Schutz, p. 242
- ^ Schutz, p. 254
- ^ Schutz, pp. 255–256
- ^ Schutz, p. 244
- ^ Schutz, p. 252
- ^ Schutz, pp. 257–260
- ^ Schutz, p. 264
- ^ Schutz, p. 265
- ^ Schutz, pp. 272–273
- ^ Schutz, p. 273
- ^ Schutz, pp. 282–283
- ^ Schutz, pp. 284–285
- ^ Schutz, p. 286
- ^ Stewart Baldwin, "The English Ancestry of George1 Pownall of Bucks County, Pennsylvania, with Notes on Thomas1 Pownall, Governor of Massachusetts Bay and South Carolina", The American Genealogist, 76(2001):81–93, 217–26; Edward J. Davies, "Further Notes on Governor Thomas1 Pownall", The American Genealogist, 77(2002):190–94.
- ^ Schutz, pp. 265–268
- ^ Allen, Charles (1977) [1931]. History of Dresden, Maine. Dresden, ME: Jennie and Eleanor Everson. OCLC 4042151 p. 265
- ^ National Park Service (13 March 2009). "National Register Information System". National Register of Historic Places. National Park Service. 2020年10月12日閲覧。, reference #70000052
- ^ a b c Bowyer, T. H (Autumn 1995). “Junius, Philip Francis and Parliamentary Reform”. Albion: A Quarterly Journal Concerned With British Studies (Vol. 27, No. 3): 397. JSTOR 4051735.
- ^ Pownall, pp. 336–337
- ^ Pownall, p. 324; Charles Pownall advances his case that Thomas Pownall is Junius in chapter 12 of his biography (pp. 308ff).
- トマス・パウナルのページへのリンク