スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 02:57 UTC 版)
スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル | ||||
---|---|---|---|---|
原語表記 | Sporting Clube de Portugal | |||
愛称 |
Leões (ライオン) Verde-e-Brancos (緑と白) | |||
クラブカラー | 緑と白 | |||
創設年 | 1906年 | |||
所属リーグ | プリメイラ・リーガ | |||
所属ディビジョン | 1部 | |||
ホームタウン | リスボン | |||
ホームスタジアム | エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ | |||
収容人数 | 50,095 | |||
代表者 | フレデリコ・ヴァランダス | |||
監督 | ルベン・アモリム | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
| ||||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
ポルトガル国外ではスポルティング・リスボン(Sporting Lisbon)の名で広く知られているが、クラブ自身はこの名称を「単なる誤解」であり「正したい」と述べている[1]。
首都リスボンに本拠地を置きプロサッカークラブを保有、陸上競技選手を育成する。この項では主にフットボールクラブについて記述。
概要
ポルトガルサッカー界において1940年代から1950年代にかけて国内タイトルを数多く獲得し、FCポルト、SLベンフィカとともにトレス・グランデスと呼ばれる。
ユースアカデミーからはパウロ・フットレ、ルイス・フィーゴ、シモン・サブローザ、リカルド・クアレスマ、クリスティアーノ・ロナウド、ナニらを輩出してきた。
最大のライバルは同じリスボンを本拠地とするSLベンフィカ。この2チームの対戦はオ・デルビー・デ・リスボア(リスボン・ダービー)と言われ、クラシコと見なされている。またポルトガルの3強の一角を占めるFCポルトともライバル関係にあり、ポルトガルで3番目に人気のクラブである。
歴史
スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルの正式な創設年月日は1906年7月1日だが、前身とも言うべき2つのクラブの存在があった。
1902年、シントラの避暑地ベーラスで休暇中だった上流階級の人々によってスポート・クラブ・デ・ベーラス (Sport Club de Belas) が創設された。同クラブはわずか1試合を行ったのみで休暇状態に入ったが、リスボンに帰ったメンバー達は1904年にカンポ・グランデ地区でカンポ・グランデ・フットボール・クラブ (Campo Grande Football Club) を改めて創設した。しかし1906年にクラブで内部分裂が起き、その際の脱退者らが創設したクラブがスポルティングである。
ジョゼ・オルトレマン・ロケッテ(ジョゼ・アルバラーデ)は、祖父から資金と土地の援助を受けてスポルティングの創設を助け、初代会長を務めた。スポルティングの本拠地エスタディオ・ジョゼ・アルバラーデの名は彼に因む。
1938年にはポルトガルでも全国規模のリーグ戦が開始された。スポルティングは1940年代から1950年代にかけて最初の黄金期を迎え、この20年で10回の優勝を果たした。1940年代後半のフェルナンド・ペイロテオら5人によって構成された攻撃陣は「5人のヴァイオリン弾き (Cinco Violinos)」と譬えられた。
1963-64シーズンにはクラブにとって唯一のヨーロッパタイトルであるUEFAカップウィナーズカップを獲得した。決勝のMTKブダペストとの試合は延長戦でも勝負がつかず、翌々日の再試合に勝った末の優勝だった。2004-05シーズンのUEFAカップでは決勝に進出したがロシアのCSKAモスクワに敗れた。
2018年4月にはヨーロッパリーグ準々決勝・アトレティコ・マドリード戦での敗戦によりブルーノ・デ・カルバリョ会長がFacebook上で個々の選手を批判する内容の投稿をした。翌日、キャプテンのルイ・パトリシオやウィリアム・カルバリョなど19人の選手がインスタグラムに共同声明を投稿。「我々は、チームのために必死にプレーしているが、リーダーからの支援が欠けている」と、会長に対して反論する事態になり、これに激怒したデ・カルバリョ会長は、フェイスブック上で「我慢の限界だ。このメッセージに署名した選手は、即刻出場停止にする」と、主力選手への処分を発表。結局ジョルジェ・ジェズス監督が会長と話し合った結果、選手の出場停止処分は取り下げられた [2]。
2018年5月、フーリガン約50人が練習場を襲撃し、選手やスタッフを襲撃する事件が発生した[3]。これによりバス・ドストらが負傷した。また、この事件の影響により、主力選手やユースから所属していたルイ・パトリシオ、ウィリアム・カルヴァーリョ、ジェルソン・マルティンスら主力選手やユースから所属していた選手が退団した。
2020年、有望な若手監督と目されていたルベン・アモリムを、SCブラガから高額の違約金を支払って獲得[4]。初年度からチームの期待に応え、19年ぶりに2020-21シーズンのプリメイラ・リーガ優勝を果たした[5]。
タイトル
国内タイトル
- プリメイラ・リーガ:19回
- 1940-41, 1943-42, 1946-47, 1947-48, 1948-49, 1950-51, 1951-52, 1952-53, 1953-54, 1957-58, 1961-62, 1965-66, 1969-70, 1973-74, 1979-80, 1981-82, 1999-00, 2001-02, 2020-21
- タッサ・デ・ポルトガル:17回
- 1940-41, 1944-45, 1945-46, 1947-48, 1953-54, 1962-63, 1970-71, 1972-73, 1973-74, 1977-78, 1981-82, 1994-95, 2001-02, 2006-07, 2007-08, 2014-15, 2018-19
- タッサ・ダ・リーガ:4回
- 2017-18, 2018-19, 2020-21, 2021-22
- スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ:9回
- 1982, 1987, 1995, 2000, 2002, 2007, 2008, 2015, 2021
国際タイトル
- UEFAカップウィナーズカップ:1回
- 1963-64
- ^ “「リスボンと呼ばないで!」田中順也所属のスポルティング、正式名称を訴える”. フットボールチャンネル. 2016年2月13日閲覧。
- ^ “スポルティングの会長が大激怒! あわや19人が出場停止に…ポルトガルの名門でなにがあった?”. サッカーダイジェストWEB. (2018年4月9日) 2019年1月25日閲覧。
- ^ “フーリガン50人が選手襲撃! エースFWなど数人が負傷…ポルトガルで前代未聞の事件”. フットボールチャンネル. (2018年5月16日) 2018年6月12日閲覧。
- ^ “第二のモウリーニョになれるか?スポルティング監督、アモリムの革命。”. Number 文藝春秋 (2020年7月6日). 2022年6月27日閲覧。
- ^ “スポルティングが19年ぶりにリーグ優勝!…今季無敗キープでポルトガル王者に”. Soccer-King (2021年5月12日). 2022年6月27日閲覧。
- ^ “SITE OFICIAL DO SPORTING CLUBE DE PORTUGAL”. 2022年9月1日閲覧。
- 1 スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルとは
- 2 スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルの概要
- 3 過去の成績
- 4 現所属メンバー
- 5 歴代監督
- 6 参考文献
- スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルのページへのリンク