ゲオルギー・マレンコフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/04 12:49 UTC 版)
失脚後から晩年まで
没落と党追放
その後はソ連国内を転々とし、カザフ・ソビエト社会主義共和国のウスチ・カメノゴルスクにあるダム水力発電所の指導者となった後、同じくカザフスタンの炭鉱都市エキバストス[3]にあるエキバストス第一発電所の所長を務めたが、1961年11月にマレンコフはエキバストス市党委員会により党籍を剥奪され、共産党を追放される。1968年5月に引退し、年金生活に入った。
共産党追放後は権力の喪失と貧しい生活のためにうつ病に悩まされた。しかし後に自身の失脚を「クレムリンの過酷な権力闘争からの解放」と前向きに捉えるようになったという。モスクワ市内のアパートで年金を受けながら余生を送り、晩年にロシア正教に改宗した。80歳を過ぎてからはモスクワのイェロホヴォ大聖堂の教会合唱団に所属していた。また、マレンコフが晩年を過ごしたアパートの隣人は、同じく反党グループとして失脚し、党籍を剥奪されて年金生活に入ったラーザリ・カガノーヴィチであった。
死去
失脚後は不遇の晩年を過ごしたマレンコフだが、生涯を通じて共産主義者であり続けたとされる。1984年、同じく”反党グループ”として失脚したモロトフの復権が承認された際には、時のチェルネンコ書記長に対し、自身の復権も承認するよう要求する手紙を送った。ソ連末期の1988年1月14日、若き指導者のゴルバチョフによるペレストロイカの時代に86歳でひっそりと亡くなった。長命であり、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコよりも長く生きていた。遺体はモスクワのクンツェヴォ墓地に埋葬された。ソ連では要職経験者は赤の広場に葬られるのが慣例となっていたが、退いた後に失脚したこともあってフルシチョフと同じくこの場所には埋葬されなかった。
- ^ http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-3404100790.html
- ^ https://jp.rbth.com/history/85461-amari-yuumei-dewanai-soren-shidousya
- ^ ここの政治犯特別収容所には、1950年から1953年までアレクサンドル・ソルジェニーツィンが収容されていた。
- 1 ゲオルギー・マレンコフとは
- 2 ゲオルギー・マレンコフの概要
- 3 概要
- 4 失脚後から晩年まで
- 5 家族
固有名詞の分類
- ゲオルギー・マレンコフのページへのリンク