ウガンダ・タンザニア戦争 ウガンダ・タンザニア戦争の概要

ウガンダ・タンザニア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 14:47 UTC 版)

ウガンダ・タンザニア戦争

ウガンダ(赤)とタンザニア(青)
1978年10月30日 - 1979年4月11日
場所ウガンダ
結果

タンザニアの勝利

衝突した勢力
ウガンダ
リビア
パレスチナ解放機構[1][2]
タンザニア
ウガンダ民族解放軍
モザンビーク人民共和国[2]
支援国:
 中国[3][4]
 アルジェリア[3][5]
社会主義エチオピア[3]
指揮官

イディ・アミン
ムアンマル・アル=カッザーフィー

ヤーセル・アラファート

ジュリウス・ニエレレ
Abdallah Twalipo
Tumainiel Kiwelu
ティト・オケロ
ヨウェリ・ムセベニ
David Oyite-Ojok

サモラ・マシェル
戦力
ウガンダ:7万人以上
リビア:3000人
パレスチナ:200人~
タンザニア:10万人
ウガンダ抵抗軍:6000人
モザンビーク大隊
被害者数
ウガンダ:1000人以下
リビア:600人以下[2]
タンザニア:373人
UNLA:150人[2]
1500人のタンザニア国民と500人のウガンダ国民が殺害された[2]

戦争前

タンザニアとウガンダは戦争の数年前から緊張状態にあった。アミンが1971年ウガンダ革命英語版で権力を握ると、タンザニアの指導者ジュリウス・ニエレレは追放されたウガンダ元大統領のミルトン・オボテを保護した。オボテはアミンの敵対勢力殲滅計画から避難した2万人の避難民と合流した。1年後、タンザニアのウガンダ避難民はウガンダに侵攻してアミンを取り除くことを計画し、失敗した。アミンはニエレレを非難した。

1978年10月上旬、反乱軍はアミンをカンパラの大統領別荘で待ち伏せしたが、彼は家族と共にヘリコプターで脱出した[6]。これはアミン派が急速に減り、ウガンダ内からの異議が増えていた時期である。アミンの副大統領であるムスタファ・アドリシが疑わしい交通事故で負傷した時、アドリシに忠誠を誓う兵士(と他の理由で不満を持つ兵士)が暴動を起こした。アミンは暴動を鎮圧するためにシンバ精鋭部隊を含む兵士を送り、一部がタンザニア国境を越えた[1][6]。反乱軍はタンザニアに流れ込み、タンザニアにいる反アミン避難民がアミン軍との戦いに参加した。

ウガンダはタンザニアに宣戦布告し、ウガンダに帰属するとアミンが主張する、タンザニアのカゲラ地方を併合するために侵攻した。

戦争

ニエレレはタンザニア国民防衛軍を動員し反撃した。タンザニア軍は数週間で警察や囚人、国民兵、軍人を含む4万から10万人に増加した。ウガンダ避難民から成る反アミン集団もタンザニアに加勢した。彼らはモシ会議に所属し、モシ会議はウガンダ国民解放軍 (UNLA) を形成した。ティト・オケロ とデビッド・オイテ・オジョクが率いるキコシ・マールムや、ヨウェリ・ムセベニが率いるFRONASA、アケナ・プオジョクとウィリアム・オマリアとアテケル・エジャルが率いるウガンダを救う運動 がこれに参加した。

タンザニア軍はソ連カチューシャロケット砲(ウガンダ軍の呼称はサバ・サバ)を獲得して、ウガンダ軍を標的に砲撃を開始した[7]。ウガンダ軍は即座に退却を開始した。リビアムアンマル・アル=カッザーフィーT-54戦車やT-55戦車、BTR兵員輸送車、BM-21グラート、MiG-21Tu-22爆撃機などで武装した2500人の軍隊をウガンダ側に派兵した[8]。しかし、リビア軍が間もなく前線に立たされたのに対して、ウガンダ軍は略奪した資産を積んだトラックとともに反対側に退却していた[9]

リビア軍は、正規軍と市民軍、サブサハラのイスラム軍団を混成して、このような遠征任務のためにリビアが作った軍隊だった[8]。UNLAの不穏分子が加わったタンザニア人はカンパラに北進したが、ルカヤの北の深く広大な沼地で止まらざるを得なかった。タンザニア人は201旅団を直接沼地を越える舗装道路から進軍させ、舗装道路が封鎖、もしくは破壊された場合のためにより良い208旅団に沼地西岸を迂回させた。旅団規模のリビア軍の攻撃計画は15機のT-55、12機のAPC、BM-21 MRLを用いマサカに到達することで、タンザニア軍とルカヤで3月10日に衝突したり201旅団を背後から混乱させるのではなかった。しかし、3月11日から12日のタンザニア軍の2方向からの夜間反撃、すなわち再構成された201旅団の南からの攻撃と208旅団の北西からの攻撃は成功した。これにより、多くのリビア軍や市民軍が散り散りに撤退した。200人以上のリビア人と200人の同盟のウガンダ人が犠牲になった。

タンザニア軍とUNLA軍はルカヤでの戦闘の後、小さな抵抗に遭ったが、カンパラに向けて西進した。最初の戦闘でエンテベ国際空港を奪い、1979年4月10日にカンパラを解放した。少数のウガンダ軍やリビア軍が抵抗したが、タンザニア軍にとっての最大の問題は、彼らが都市の地図を持っていないことだった[8]。アミンはリビアに逃げるもその政権中の残虐行為が敬遠されて数カ月でサウジアラビアに亡命した[10][11][12]。リビア軍はジンジャに撤退し、ケニアとエチオピアを経由して本国に送還された。タンザニア軍はUNLF(UNLAの政治部門)が民政統治への選挙を準備する間、平和維持のためにウガンダに残った。

タンザニア政府はNishani ya Vita勲章を授与した。表にはVita-1978-1979、裏にはTanzaniaと書かれていた。


  1. ^ a b Idi Amin and Military Rule”. Country Study: Uganda. Library of Congress (1990年12月). 2010年2月5日閲覧。 “By mid-March 1979, about 2,000 Libyan troops and several hundred Palestine Liberation Organization (PLO) fighters had joined in the fight to save Amin's regime”
  2. ^ a b c d e Acheson-Brown, Daniel G. (2001). “The Tanzanian Invasion of Uganda: A Just War?”. International Third World Studies Journal and Review 12: 1–11. http://www.unomaha.edu/itwsjr/ThirdXII/AchesonBrownTanzaniaVol12.pdf 2013年12月閲覧。. 
  3. ^ a b c Brzoska & Pearson 1994, p. 210.
  4. ^ Cooper & Fontanellaz (2015), p. 19.
  5. ^ Cooper & Fontanellaz (2015), p. 27.
  6. ^ a b "An Idi-otic Invasion", TIME magazine, Nov. 13, 1978.
  7. ^ “Fighting for Amin”. The East African. (2002年4月8日). オリジナルの2008年3月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080308114206/http://www.nationaudio.com/News/EastAfrican/15042002/Features/Magazine3.html 2013年12月閲覧。 
  8. ^ a b c Pollack, Kenneth M (2002). Arabs at War: Military Effectiveness 1948–91. Lincoln and London: University of Nebraska Press. pp. 369–373. ISBN 0-8032-3733-2 
  9. ^ Armed Conflicts Event Data: Tanzanian-Ugandan War 1978-1979”. OnWar.com (2000年12月16日). 2013年12月閲覧。
  10. ^ “IDI AMIN LIVING HIGH IN SAUDI ARABIA”. ワシントン・ポスト. (1991年3月31日). https://www.washingtonpost.com/archive/opinions/1991/03/31/idi-amin-living-high-in-saudi-arabia/275f4458-649d-4ac8-8fcc-7b7e14839184/?noredirect=on&utm_term=.528902c5c1b7 2020年1月5日閲覧。 
  11. ^ “Out of Africa: Idi Amin Apparently Returning to Exile Home”. AP通信. (1989年1月20日). https://apnews.com/b96282c58b9cd46acc57ab594259cf62 2020年1月5日閲覧。 
  12. ^ Idi Amin”. Encyclopædia Britannica (2008年12月19日). 2007年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月5日閲覧。
  13. ^ Avirgan, Tony; Honey, Martha (1983). War in Uganda: The Legacy of Idi Amin. Dar es Salaam: Tanzania Publishing House. ISBN 978-9976-1-0056-3. p.124
  14. ^ May, Roy; Furley, Oliver (2017). African Interventionist States. Milton, Vale of White Horse: Routledge. ISBN 978-1-351-75635-8.
  15. ^ Roberts, George (2017). "The Uganda–Tanzania War, the fall of Idi Amin, and the failure of African diplomacy, 1978–1979". In Anderson, David M.; Rolandsen, Øystein H. (eds.). Politics and Violence in Eastern Africa: The Struggles of Emerging States. London: Routledge. pp. 154–171. ISBN 978-1-317-53952-0.
  16. ^ Atuhaire, Alex B. (2007年4月11日). “Uganda: Country Pays Tanzania Shs120 Billion Amin War Debt”. AllAfrica.com. http://allafrica.com/stories/200704110882.html 2013年12月閲覧。 (要購読契約)


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