FUJICの開発
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「FUJIC」も参照 「科学朝日」1948年8月号のSSEC(Selective Sequence Electronic Caculator)の記事とグラビア写真を見て計算機の実現可能性を信じたことが、岡崎文次のFUJIC開発の動機である。当時、写真機のレンズを設計するには、女子の計算手が2人1組になって対数表を使い、光軸の計算を1日に数本行っていた。写真レンズの場合、1000本から2000本の光軸計算が必要であった。そのため高速計算機が必要であると考えた。会社に「レンズ設計の自動化について」という提案書を提出し、20万円の研究予算が認められ、開発に着手した。1949年3月のことであった。FUJIC開発が成功した理由として次のことを挙げている。 1950年代は、参考資料が無い時代だったので、読んだり、解釈に迷ったりする時間が省けた。研究とは経験のないことを試行錯誤で進めるものである。 物理の出身であったので、光学、電気、機械のどのような分野でも経験のないことを研究することができた。 本業ではなく、片手間の仕事であったので、ほとんど独力で、複数で行っても少人数で製作を推進した。そのため会議が無く、準備や意見の調整などに、時間を取られることが無かった。 目標達成のためには、必要十分で、できるだけ簡単な方法をとったため失敗が無かった。 半年に1度くらい数ページの報告書を提出し、効果的なデモンストレーションを行い、プロジェクトの有効性を示した。それにより予算の獲得ができた。後から考えるとシステム工学の方法に合致していた。
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