CDC 6600:スーパーコンピュータの誕生
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「コントロール・データ・コーポレーション」の記事における「CDC 6600:スーパーコンピュータの誕生」の解説
一方、シーモア・クレイと34人の技術者は新しい研究所で設計を続行した。1964年、その成果は CDC 6600 としてリリースされ、市場に存在するあらゆるマシンと比較して10倍以上の性能を誇った。6600のCPUは複数の非同期な機能ユニットで構成され、10個のI/Oプロセッサが接続されていて多くの一般的なタスク負荷を受け持っていた。そのためCPUは穿孔カードやディスク入出力といったありふれた仕事をコントローラに任せて、データ処理に専念することができる。最新のコンパイラでは0.5MFLOPSの性能、アセンブラでコードを書くと約1MFLOPSの性能を記録した。これは時代を考えると驚異的な数字である。性能を落としたバージョン CDC 6400 と 2プロセッサバージョン 6500 もリリースされた。 6600向けに MNF (Minnesota Fortran) というFORTRANコンパイラが、ミネソタ大学で開発されている。 6600が出荷されると、IBMはこの新しい会社に注目した。トーマス・J・ワトソン・ジュニアは「この門番を入れても34人しかいない小さな会社が数千人を抱える我が社を打ち負かしたのはどうしたわけだ?」と言ったと伝えられている。これを耳にしたクレイは「その質問の中に答えがあるじゃないか」と言ったという。1965年、IBMは 6600 よりも高速なマシン ACS-1(英語版) の開発プロジェクトを開始した。200人がこのプロジェクトのために集められた。このプロジェクトは面白いアーキテクチャと技術を生み出したが、それはIBMのSystem/360とは互換性がなかった。System/360互換となるよう方向転換が図られたが、そのために性能が低くなり、プロジェクトは何も製品を生み出せないまま1969年に中止された。そのためこれに関わった多くの技術者がIBMを退職し、IBMの高性能コンピュータ部門から頭脳が失われた。 一方でIBMは先走って6600と同等性能のSystem/360シリーズの新バージョン Model 92 を発表した。このマシンは実在しなかったが、人々がそのリリースを待って6600の売り上げがストップするまで取り消さなかった(今日ではFUDと名づけられているマーケティング手法である)。ノリスはこの嘘を放っておかず、1年後にIBMを反トラスト法違反で訴えた。結局、CDCは8000万ドル相当のIBMの資産を手に入れた。その中でノリスは Service Bureau Corporation (SBC) に注目した。同社はコンピュータを所有して他の企業に計算能力を提供していた。これはノリスが進めていた計算サービス事業にうまくはまった。 6600設計の過程で、CDCは同システムに高速磁気ディスク装置システムを提供するSPINプロジェクトを実施した。当時磁気ディスクが磁気ドラムメモリに取って代わるかどうかは不明であり、ディスクも固定型とリムーバブル型のどちらがよいのか不明だった。そのためSPINプロジェクトではあらゆる選択肢を試し、最終的に28インチ固定ディスク型と14インチのパック型を生み出した。その後、SPINプロジェクトに端を発したハードディスク事業がCDCの主力となっていく。
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