1967年 - 1969年
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「エインズレー・ダンバー」の記事における「1967年 - 1969年」の解説
1967年にジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのアルバム『ジョン・メイオールとピーター・グリーン / ブルースの世界』に参加。これがメジャー・デビューとなった。 その後ヤードバーズを脱退したジェフ・ベックが結成したジェフ・ベック・グループのドラマーとして迎え入れられる。しかしマネージメント・サイドの意向によりポップな路線に導かれている同グループの音楽性に反発し、シングル「Tallyman / Rock My Plimsoul」のレコーディングを後に脱退する。ジェフ・ベックは「ミック(・ウォーラー。エインズレー脱退後に加入した第一期ジェフ・ベック・グループのドラマー)もいいけど、エインズレーほどのドライブ感はないね」とエインズレーの脱退を惜しんだ。 1968年、自らの音楽を追求するために「エインズレー・ダンバー・リタリエイション」を結成する。リタリエイション名義で4枚、エインズレー個人のソロ名義で1枚のアルバムを発表。全作品、非常にブルース色の強い名作揃いだが、商業的には成功とは言えず、以降ソロとしての作品は殆ど無い。リタリエイションは1969年10月24日から28日までブリュセルで開催されたアムーギー音楽祭に参加したが(リタリエイションは24日に出演)、エインズレーはそこでキャプテン・ビーフハートのアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(ザッパのプロデュース)のプロモーションに来ていたフランク・ザッパと出会いジャム・セッションを行う。
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1967年 - 1969年
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「ジルベルト・ジル」の記事における「1967年 - 1969年」の解説
1967年、デビュー・アルバム『Louvação』発表。そして、ジルベルトとカエターノ・ヴェローゾは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に衝撃を受け、ムタンチス、ナラ・レオン、ガル・コスタ等も加えて、トロピカリアというムーヴメントを代表するコラボレーション・アルバム『Tropicalia ou Panis et Circenses』(1968年)を発表。同作は、ブラジル初のコンセプト・アルバムとして評価されている。ジルベルトは、自身のセカンド・アルバム『Gilberto Gil (Frevo Rasgado)』(1968年)でもムタンチスと共演。 しかし、ジルベルトの先進的な音楽は、時に論争の的となった。1968年、ブラジルの歌謡祭の予選でソウルミュージックからの影響を反映した「Questão de Ordem」を歌った際、学生達からブーイングが起こり、ジルベルトは落選。トロピカリアに好意的だった新聞記者のネルソン・モッタでさえ、10月14日付のウルチマ・オーラ(Última Hora)紙で、この時のパフォーマンスを批判。一方、10月24日付のコヘイオ・ダ・マニャン(Correio da Manhã)紙では、好意的なコメントが寄せられた。更に、当時の軍事政権から危険人物とみなされ、1968年12月27日、ジルベルトとカエターノ・ヴェローゾは、理由も明らかにされないまま逮捕された。2人は、1969年7月20日から21日にかけて共演ライヴを行い(この時の模様は、1972年にライヴ・アルバム『Barra 69 - Caetano e Gil Ao Vivo na Bahia』として発表される)、間もなくロンドンに亡命した。
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