1955年州知事選挙
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「バート・コームズ」の記事における「1955年州知事選挙」の解説
A・B・"ハッピー"・チャンドラーは1935年から1939年まで州知事を務め、州民主党の派閥の1つを率いる領袖であり、1955年に州知事として2期目を務める意思を明らかにした。反チャンドラー派の指導者達は急遽、対抗できる候補者を探し始めた。最も可能性が高い候補者は現職副知事であるエマーソン・"ドク"・ビーチャムだったが、ビーチャムは選挙が下手であり、時として汚職に結びつく政治ボスが支配するローガン郡と結びついていることが、反チャンドラー派を思いとどまらせた。派閥の指導者で元州知事かつ現職アメリカ合衆国上院議員のアール・C・クレメンツが、コームズを派閥の候補者に選定したので、コームズは立候補するために控訴裁判所判事の職を辞した。 予備選挙で最初の演説では、州が2,500万ドル(2014年換算で2億2,000万ドル)の税収増をあげる必要があり、消費税を検討すべきときにあることをコームズは認めた。経験の多い政治家であるチャンドラーは、コームズのこの提案を攻撃し、自分のような経験ある州知事ならば、州の債務のために税率を上げる必要はないと主張した。コームズの演説は用意された原稿から一語一語読み上げていたこともあり、乾燥し、印象が弱いことも攻撃された。「そしてあなたは、『私』が演説できないと言った」と、ビーチャムは後にクレメンツに苦情を言っていた。「ルイビル・クーリエ・ジャーナルのフランクフォート支局主任ヒュー・モリスは、「コームズは同じ夜に選挙運動を始め、終えた」とコメントしていた。 コームズが選挙戦でほとんど対抗できないままで、チャンドラーはコームズをクレメンツ、ウェザビー両知事の傀儡と表現し、クレメンツには「クレメンタイン」、ウェザビーには「ウェザーバイン」と嘲笑的にあだ名をつけた。二人の政権が無駄遣いをしたと告発し、特にケンタッキー・ターンパイクとフリーダム・ホールの建設や不必要な使途を槍玉に挙げた。チャンドラーの攻撃の幾らかは性格上個人的なものになった。チャンドラーの言に依れば、クレメンツは自分の事務所に2万ドル(2014年換算で176,075 ドル)の新しい絨毯を購入しており、ウェザビーは「良き正直なケンタッキー州の木材」の代わりにアフリカ産マホガニー材で事務所の壁を貼らせた。納品書に拠ればケンタッキー州会議事堂1階全体の床での絨毯が2,700ドルに過ぎず、ウェザビーのパネルはケンタッキー州の業者から購入、施工されたものであることが分かったが、チャンドラーの指摘は選挙戦の間にコームズを防御的にさせる効果があった。 予備選挙の2週間前、コームズは元副大統領でケンタッキー州生まれであるアルバン・W・バークリーの支持を受けたが、コームズはこの支持表明があまりに遅すぎて助けにはならないと感じた。チャンドラーは予備選挙で259,875票を獲得して241,754票のコームズを破って公認候補となり、その後の本選挙でも当選して知事の2期目を務めた。コームズはプレストンズバーグに戻り、貯蓄貸し付け会社を結成し、法律実務会社も再建した。チャンドラーが知事であった4年間、コームズは多くの講演依頼を受けたが、それ以外は大衆の目から消えていた。一方、州財政の必要性から、チャンドラーは州消費税その他を増税するしかなくなり、選挙の公約が果たせなかった。その結果チャンドラーは信用を失い、コームズは選挙中に州財政の増税必要性を認めていたことで、勇敢で、率直で正直な政治家という評判ができた。
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