1926年マイアミ・ハリケーン
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「エバーグレーズの排水と開発」の記事における「1926年マイアミ・ハリケーン」の解説
1920年代、土地と人口のブームを助長する条件が幾つか揃った。その1つは激しい嵐が無いことだった。その前の暴風は1906年のものであり、フロリダ・キーズを襲っていた。この嵐が無い期間を利用して多くの家屋が慌てて、しかもお粗末に建設された。しかし、1926年9月18日、後に1926年マイアミ・ハリケーンと呼ばれることになる嵐が、時速140マイル (62 m/s) 以上の風を伴って襲い、大きな被害を生じさせた。ある場所の高潮は15フィート (4.6 m) にもなった。ヘンリー・フラグラーの豪勢なロイヤルパーム・ホテルは、他の多くのホテルや建物と共に破壊された。この時に亡くなった人々の多くは、ハリケーンの目が頭上を通過した間に、その後では反対側から風が吹いて来ることを知らずに、道路に飛び出した者達だった。「小やみの時間は35分間続き、その間市内の通りは人々で込み合うようになった」と地元気象予報主任のリチャード・グレイが記していた。「その結果、嵐の第2段階の間に多くの命が失われた」と続けた。マイアミだけで115人が死亡した。死者の数には人種差別の思想が入っていたために、その総数は175人だった可能性もある。市内で25,000人以上の人々が家を失った。オキーチョビー湖に接するムーアヘイブンの町の被害が大きかった。泥で造られた堤防が崩壊し、町の人口1,200人のうち、400人近くが溺死した。オキーチョビー湖の堤防の頂部は湖水位から僅か18ないし24インチ (46 - 61 cm) 高いだけであり、技師達はその危険性を認識していた。ハリケーンが来る2日前、ある技師が「もし嵐に襲われたら、それが疾強風(秒速17-20m) であっても、ムーアヘイブンの町は水面下になる」と予言していた。この技師は洪水の中で、その妻と娘を失った。 マイアミ市はハリケーンの影響を軽視し、救援も断った。「マイアミ・ヘラルド」は嵐から2週間後に、市内のほとんど全ての事情が通常に戻ったと宣言した。州知事も救援のための特別予算を割り当てるために議会の特別会期を招集せず、破壊の状況を最小化する動きを支持していた。その結果、本当に必要な救援資金500万ドルのうち、アメリカ赤十字社が集められたのは300万ドルに過ぎなかった。このように被害を隠蔽する動きがあったにも拘わらず、1926年のハリケーンは実質的にマイアミの土地ブームを終わらせた。排水委員会の委員たちは運河による効果を再評価せざるを得なくなった。オキーチョビー湖の周りに堤防を建設する2,000万ドルの計画は、資産税で賄われることになっていたが、懐疑的な有権者がそれを停止するよう訴訟を起こしたあとで、取り下げられた。それまでの運河に1,400万ドル以上が費やされ、それは過剰な水を排除したり、必要な時に配分したりするには効果が薄いことが分かった。
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