1861年イタリア統一をめぐる問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:22 UTC 版)
「国民国家」の記事における「1861年イタリア統一をめぐる問題」の解説
詳細は「イタリア統一運動」および「未回収のイタリア」を参照 「諸国民の春」ののちイタリアでは、イタリア統一運動が活発化し、1861年にはイタリア王国が成立した。しかし、そののちも、オーストリア帝国領内には「イタリア語の発音が聞こえる地域」がのこった。南ティロル地方、トレンティーノ地方、トリエステ、イストリア地方、フィウーメ(リエカ)、ダルマツィア地方など旧ヴェネツィア共和国領にあたる地域であり、これらの地域は「未回収のイタリア」と称された。統一イタリア王国は普墺戦争の際、プロイセン王国軍と同盟してオーストリアと戦い、ヴェネツィアを回収したが、戦争は7週間で終結したため、ヴェネツィア以遠のイタリア人居住地域の「奪回」を果たすことができなかったのである。 「未回収のイタリア」の存在は、その後のイタリアを左右しつづけた。イタリアは、第一次世界大戦に際し、当初三国同盟に基づいて同盟国側に立ったが、「未回収のイタリア」帰属問題をめぐりオーストリア・ハンガリー帝国と対立、開戦に際しては中立を宣言し、最終的には、1915年にイギリス・フランスなど連合国側について参戦した。しかし、こうして第一次大戦の戦勝国となりながらも、期待していたフィウーメなどの領地が得られなかったことから、戦後のヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。「未回収のイタリア」問題は、1920年代から30年代にかけてのファシスト党の台頭の遠因のひとつとなったのである。
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