1622年-1646年:根本的紛争の拡大:開拓者対インディアン
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「バージニア州の歴史」の記事における「1622年-1646年:根本的紛争の拡大:開拓者対インディアン」の解説
1619年の発展とそれに続く数年の成長はイギリス人には望ましいことに見えたが、多くの観点、特にタバコを栽培するためにさらに多くの土地を必要とし続けたことがインディアン、なかでも影響の大きいポウハタン族には心配事を増やす原因になった。 中心問題は誰が支配するかということだった。ポウハタン族は1607年と1608年にその政治的仕組みの中にバージニアを正式にまた儀式上受け入れ、ポウハタン酋長の支配下の何年か、さらにその後も当然自分達のものと考えている支配権を行使するために戦った。しかし、開拓者達はポウハタンの権威を認めることはなく、自分達も支配しているように振る舞った。 この時までに、残っていたポウハタン帝国はパムンキー族の長でポウハタン酋長の兄弟、オペチャンカナウ酋長に率いられていた。かれはその兄の支配下でも激しい戦士としての評判が立っていた。間もなく、外交的な交渉を諦め、イギリス人開拓者を根絶することに決めた。 1622年3月22日の聖金曜日、1622年のインディアンによる虐殺と呼ばれることになる事件で約400人の開拓者が殺された。組織的な攻撃でジェームズ川両岸のほとんど全てのイギリス人開拓地が襲われた。ハンプトン・ローズの東、ニューポート・ニューズ・ポイントから西、上流のフォーリング・クリークまで、ヘンリカスの上流数マイルとジョン・ロルフのプランテーション、バリナ・ファームが含まれた。 ジェームズタウン自体では、チャンコというインディアンの少年がその雇用主リチャード・ペイスを殺せという命令を拒まなければもっと死者の数や破壊の程度がひどかったであろうが、実際にはチャンコがペイスに攻撃の前夜に警告した。ペイスはそのプランテーションを確保し、夜の間に川を漕ぎ渡ってジェームズタウンに警告し、何らかの準備をさせた。しかし、他のイギリス人の拠点に警告を拡げる時間までは無かった。ほとんど全ての拠点で開拓者が殺されたり捕まえられたりした。ヘンリカスやマーティンズハンドレッドのウォルステンホーム・タウンなど幾つかの地域社会は完全に消え去った。植民地のためにその将来性が期待されていたフォーリング・クリーク鉄工所では、27人が殺されたが2人の女性と3人の子供もその中に含まれており、わずか2人のみが生き残った。設備は破壊された。 しかし、大きな損失があったものの開拓者の3分の2はこの運命の日を生き残った。当初はジェームズタウンに引き返したあとで、開拓者の多くはまた離れたプランテーションにもどった。ただし幾つかのプランテーションは放棄された。イギリス人によるポウハタン族に対する報復もあった。休戦が打たれるまでの約1年間、開拓者とインディアンとの間の戦闘が続いた。 ジェームズタウンで会合が持たれ、休戦の提案がなされた。しかしジェームズタウンの指導者の中でジョン・ポッツ博士など数人がインディアンの祝杯の中に毒を混入させ、会したインディアンの中のおよそ200人を殺した。他にも50人のインディアンが人の手で殺された。 1622年の抗争ともう一度1644年にあった抗争の間の時期に、ポウハタン族とイギリス人の間の関係に転換点が訪れた。すなわち、双方が命令を発することができるだけでなく、その関係の条件を支配していると考えている状態から、1646年以降の時期では植民地側が明らかに支配しているという状況に変わった。 開拓者達は1644年の抗争を「反逆」と定義したが、この時期になってもオペチャンカナウ酋長は、開拓者達がポウハタン族に対して行った誓約を破っているという道徳的に見てインディアンを正当化できると考えることを反映する結果になるものと期待していた。1644年の抗争の時、オペチャンカナウ酋長が捕まった。彼は監獄に入れられている間にその護衛の一人によって殺された。 オペチャンカナウ酋長の死後、1644年と1645年には開拓者達による攻撃が繰り返され、ポウハタン族は開拓者達の要求を受け入れるしか選択肢がなくなった。
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