高松藩との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 10:20 UTC 版)
江戸切絵図には、高松藩下屋敷内に、大名と並んで【植木屋】の記載がある。この【植木屋】が該当するとされている。三河島近辺から労働力を供給していた中間部屋の役割を果していたものと考えられる(吉田伸之:近世都市社会の身分構造 東京大学出版会)。 高松藩との関わりを示す例として、慶応元年(1865)5月17日浪人体の男2名が村田家へ来て、松平讃岐守の家臣であることを自称した。そして金銭を奪おうと強談に及んだが、平十郎(第5代)はいち早く裏口かから逃れ軒下で様子を窺っていた。浪人達は弟源次郎を平十郎と間違え、縄で縛り挙げ、挙げくには隣家の者をも縄で縛り挙げ強要した。源次郎は、浪人に対して、「平十郎は日々御屋敷へ罷り出て面体恰好などこれご承知これある可きはず」申し立てたところ、家探しの末、弓張提灯一つと番傘一本を奪って逃走したと郷土史に記録されている(事件を役所に届け出た際には、松平讃岐守屋敷へ出入りし、人足寄せの御用をしている旨を述べている)。このように、平十郎(第5代)に付いては、高松藩松平家家臣であれば知らない者がなかったことが分かる。更に、弓張提灯と番傘には家紋である丸の中に三階松が記されていたとある(三河島に大きな勢力を持っていた村田家、伊藤家、松本家の家紋は全て、枝付きの三階松である。枝付きの三階松は、高松藩羽床氏の家紋でもある)。 また、安政の大地震(1855)で高松藩江戸屋敷も家屋、土塁が損壊したので、その修復にも当ったようである。
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