領域と位置づけ
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昭和初期、1928年(昭和3年)時点での「西陣京極」は、「千本通の中立売 - 今出川間」に形成された繁華街を指すものと考えられていた。昭和初期に京都の市街地を精力的に紹介した大京都社(姉小路東洞院西入ル)の西村善七郎はその著書の『大京都』において、四条通の御旅町(寺町 - 河原町間)、烏丸通、寺町通(とくに丸太町 - 三条間)、三条通(とくに寺町 - 木屋町間)、河原町通(四条付近)、そして堀川京極(西堀川通の丸太町 - 中立売間)、大宮通(とくに五辻以北)、七条通(とくに河原町 - 千本間)とならべて、京都市内の繁華街を挙げている。 1935年(昭和10年)、京都帝国大学経済学部教授の谷口吉彦が発表した『配給組織論』第三篇第九章において、谷口は、当時の日本の6大都市である東京市、大阪市、京都市、名古屋市、神戸市、横浜市の各都市に存在する主要な商店街を列挙し、京都市においては、四条通、京極(新京極通)、寺町通、東五条(五条通の鴨川以東)、堀川通、西陣京極の6つを挙げている。 第二次世界大戦後、千本通をめぐる商店会に千本共栄会、西陣京極会、千本京極会があった。1969年(昭和44年)にこれが統合されて、西陣千本商店街を形成した。1982年(昭和57年)には千本昭栄振興組合、千本繁栄振興組合が加わり、千本商店街連合会が結成されている。西陣千本商店街の範囲は、北が千本今出川、南が千本上長者町であり、「西陣京極」の範囲に加えて、千本中立売以南が含まれている。 2013年(平成25年)現在、「西陣京極」の領域には映画館・芝居小屋の類は残っていない。西陣地区全域に広げても、残っているのは、戦後に五番街東宝として開館した千本日活(上長者町千本西入ル五番町)のみである。 「千本通」を参照
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領域と位置づけ
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昭和初期、1928年(昭和3年)時点での「堀川京極」は、「西堀川通の中立売 - 丸太町間」に形成された商店街を指すものと考えられていた。昭和初期に京都の市街地を精力的に紹介した大京都社(姉小路東洞院西入ル)の西村善七郎はその著書の『大京都』において、四条通の御旅町(寺町 - 河原町間)、烏丸通、寺町通(とくに丸太町 - 三条間)、三条通(とくに寺町 - 木屋町間)、河原町通(四条付近)、そして西陣京極(千本通の中立売 - 今出川間)、大宮通(とくに五辻以北)、七条通(とくに河原町 - 千本間)とならべて、堀川京極を京都市内の繁華街として挙げている。 そもそも平安京造営にともなって、堀川小路に沿って造成された運河としての堀川を中心に発展し、16世紀には京都御所あるいは聚楽第(1587年完成 - 1595年破壊)を背景にマーケットとして栄えた地であり、明治初期にはすでに商家が軒を連ね、明治中期には小売店・飲食店が大半を占め、上京区内では最初の商店街の様相をなした。「堀川京極」と呼ばれるようになった時期は、西陣京極等よりも早く、19世紀末、明治中期であるといい、大正中期であるという説もある。1895年(明治28年)9月24日にはすでに京都電気鉄道中立売線(のちの京都市電堀川線)が開通し、「堀川中立賣」「堀川下長者町」「堀川下立賣」の各電停が設置され、「堀川丸太町」電停が設置されたのは、1901年(明治34年)12月6日の堀川線開通時であった。 大正中期には、堀川京極に鉄骨アーチの全蓋テントによるアーケードが設置され、私費による舗装がなされ、電気照明が備えられている。1927年(昭和2年)には、259店舗を会員として「堀川京極会」が結成されている。 1935年(昭和10年)、京都帝国大学経済学部教授の谷口吉彦が発表した『配給組織論』第三篇第九章において、谷口は、当時の日本の6大都市である東京市、大阪市、京都市、名古屋市、神戸市、横浜市の各都市に存在する主要な商店街を列挙し、京都市においては、四条通、京極(新京極通)、寺町通、東五条(五条通の鴨川以東)、西陣京極、そしてこの堀川通(堀川京極)の6つを挙げている。
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