須賀川二階堂氏とは? わかりやすく解説

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須賀川二階堂氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:56 UTC 版)

二階堂氏」の記事における「須賀川二階堂氏」の解説

文安元年1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏須賀川下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔討ち須賀川城入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主といわれている。現存する須賀川二階堂氏の系図多く後世作成されたものであり、為氏以前がどの家系につながるかは判然としない。 須賀川二階堂氏は鎌倉府時期には三河守系と遠江守系の二つ系統あったようで、戦国期につながるのは足利義政から御内書下された二階堂寿の遠江守系で、二階堂貞藤備中家)の兄・時養子であった二階堂成藤の子孫と推定される。ただ、寿は現存する二階堂氏系図には名前が見当たらず、為氏との関係は定かでない天文11年1542年)に勃発した天文の乱呼ばれる伊達氏内訌ないこう)に端を発した大乱では、伊達稙宗娘婿二階堂照行(輝行とも)は稙宗方となっている。 永禄年間1558年から1570年)になると、度々蘆名氏攻められ二階堂盛義息子人質として送り講和した。 盛義の死後当主となった二階堂行親早世し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗伯母にあたる阿南の方大乗院)が継いでいた。そのため政宗幾度となく降伏薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否天正17年1589年10月26日政宗攻められて、須賀川城落城した。阿南の方その後政宗嫌って甥の岩城常隆頼り、常隆の死後佐竹義宣元に身を寄せた佐竹氏出羽移封されると病のため須賀川留まることになり、1602年62歳で没したという。

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行朝(伊勢家) — 行親 — 行光行永 — 行宗 — 行続 — 為氏 — 行光 — 行詮 — 晴行 — 輝行 — 盛義(『系図纂要』) 二階堂為氏(為寿丸、盛重)(?年 - 1464年) … 次郎遠江茂山英、須賀川城主、『系図纂要』では行続(行嗣)の子長禄寺所蔵二階堂藤原系図」では行秋筑前家・光の子)の孫、須賀川市普応寺寺伝では式部大輔為治の子 二階堂行光?年 - 1477年) … 山城嘉山道教 二階堂行詮(宗続?)(?年 - 1497年) … 山城青林茂公 二階堂行景(?年 - 1504年) … 太郎左衛門瑞山昌公 二階堂晴行?年 - 1542年) … 続義、信濃行直、遠江、喜山常公、将軍足利義晴より偏諱を賜う二階堂輝行(照行)(?年 - 1564年) … 弾正信濃行秀秀山義公将軍足利義輝より偏諱を賜い、駿河輝行とも表記する二階堂盛義?年 - 1581年) … 遠江信濃行盛、松山二階堂行親盛行) (1570年 - 1585年)… 信濃二郎行親 蘆名盛隆 … 盛義の子蘆名氏養子入り一門矢田野盛秀 … 『系図纂要』では為氏の兄弟室町幕府鎌倉府政所執事二階堂盛秀とは別人矢田野義正 矢田野行義 矢田野行政 矢田野行正 保土原行有 保土原行藤 保土原重行 浜尾行泰 浜尾盛泰 浜尾泰親 浜尾宗泰 【家臣遠藤勝重(?年 - 1589年) … 天正17年1589年10月伊達氏須賀川城攻め奮戦するも戦死 須田盛秀1530年 - 1625年)… 天正17年1589年10月伊達氏須賀川城攻め奮戦落城後、常陸落ち延び佐竹氏仕え矢部義政天正17年1589年10月伊達氏須賀川城攻め内応戦後伊達氏仕え守屋俊重天正17年1589年10月伊達氏須賀川城攻め内応戦後伊達氏仕える (以上を二階堂四天王という) 須田秀広 須田頼隆 須田照秀 須田永秀 須田秀行 守屋清 遠壱岐守但馬守泉田行雄 塩田政繁 大久保資近

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須賀川橋上人坦橋全長:163m主径間幅員:9.75m×2形式:2径間PC連結ポステンT桁橋×2+単純PCバイプレI桁橋竣工:1997年東詰は須賀川市中宿、西詰は上人坦に位置し、JR東北本線と当路線の旧道、須賀川市道須賀川駅江持線を渡る。第二奥州街道踏切の立体交差化による除却と、1984年より整備が進められてきた都市計画道路須賀川東部環状線の工事の一環として建設され、1997年に竣工した。上部工総工費は6億7400万円。安積橋全長:54.1m幅員:13.28m竣工:1957年5月郡山駅西口市街地北部にて一級水系阿武隈川水系逢瀬川を渡る。南詰は郡山市大町2丁目、北詰は同市富久山町久保田に位置する。南側の大町の住居表示が行われる以前は大重町という名称であったことから大重橋とも呼ばれていた。橋上は上下対向2車線で供用されており、上り線の右折車線と合わせ計3車線で供用されている。南詰の安積橋南交差点で福島県道57号郡山大越線と交差する。花かつみ橋全長:39.0m幅員:6.0m形式:単純PCポステンT桁橋竣工:1995年日和田町向山にてJR東北本線を渡る。日和田駅南側の踏切閉鎖時間が長く、渋滞により地域交通に支障をきたしていたため1980年度より立体交差化事業が行われた。郡山市の花で市民になじみのある花かつみから橋名が取られている。総工費は2億4300万円。新日和田橋

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