関ヶ原の戦いから最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:41 UTC 版)
「佐竹義重 (十八代当主)」の記事における「関ヶ原の戦いから最期」の解説
その後は義宣に実権を譲渡し、太田城にて悠々自適の隠居生活を送り、「北城様」と呼ばれた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、子の義宣はかねてから懇意にあった石田三成の西軍に付こうとしたが、時流を見ていた義重は徳川家康の東軍に与するように述べ、父子は対立した。この時義重をはじめ、義宣の弟の蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久など義宣以外の多くの佐竹家中の者が東軍を支持していた。東軍が勝利した戦後の慶長7年(1602年)5月、義宣のどちらにも付くともいえない曖昧な態度を理由に、佐竹氏は出羽国久保田計20万石(実高40万石)に減封された。義重が前から誼を通じていた家康・秀忠親子に嘆願したため、改易は免れた。 久保田移転後は相次ぐ反佐竹一揆に対応するため、義宣とは別に六郷城(仙北郡美郷町)に居を構え、六郷町の町割りをおこない、所領南部(仙北・平鹿・雄勝の3郡)の見張りを行っていたが、慶長17年(1612年)4月19日、狩猟中に落馬して死去した。享年66。末子の義直は義重の死後に生まれている。 菩提寺は闐信寺(秋田市手形字蛇野)。
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