郡内地方における治水と新倉掘抜
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「新倉掘抜」の記事における「郡内地方における治水と新倉掘抜」の解説
江戸時代の甲斐国では、甲府盆地の国中地方をはじめ都留郡(郡内地方)でも主に領主による用水堰の開削など大規模な土木事業が行われ、新田開発により農業生産力を向上させていた。郡内では元和8年(1622年)に谷村藩主となった秋元氏時代に行われたとする伝承のある谷村大堰(十日市場大堰、都留市)や禾生用水(都留市)などの大堰開削が行われている。 こうした領主による用水堰開削に対し、新倉掘抜は村落が主導して開削されたものであり、3次にわたる大規模普請により通水した。 現在の富士吉田市や富士河口湖町は山梨県南東部に位置し、新倉村は富士吉田市域の北西に位置する。新倉村は嘯山(うそぶきやま、現在の天上山)や尾重山に囲まれ、富士吉田市域の東側を流れる桂川(相模川)や、主に富士吉田市域中央部を南西から北東にかけて流れる桂川支流からは最も離れている。 また、新倉村の南東には「剣丸尾」と呼ばれる透水性の溶岩台地が広がっているため、地下水の利用や用水路の開削が困難な地域である。そのため、わずかな沢水や湧水に頼る慢性的な水不足が発生し、耕地化も困難な地域であった。さらに、近世期における郡内地方の主要産業でもある郡内織の生産においては、染色などの工程で多量の水を必要としており、新倉地域を潤す用水堰の開発が望まれていた。 一方、山地を挟んで西側に位置する河口湖は流出口が存在しない天然の内陸湖のため、湖岸の7か村(船津のほか木立、勝山、長浜、大石、川口、浅川の7村)では大雨でしばしば冠水による洪水被害が発生しており、中世には『勝山記』に被害の様子が記されている。こうした対極的な問題を解決する手段として、江戸時代には両地域の間に位置する山地に隧道を掘り、河口湖の湖水を引水して溶岩台地を開拓する構想が持ち上がっていた。
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