遼との戦い
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楊業の死により、生き残った六郎・延昭が楊家軍の当主となる。この楊延昭を当主として遼と戦う部分が、『楊家将演義』の4分の3ほどを占めており、京劇などで取り上げられる場面にもこの部分のストーリーが多く、面白い話が多い。 当主となった六郎は楊業の最期を知り、呼延賛の勧めもあって朝廷に潘仁美の裏切りを訴えることにする。しかし、太宗の寵姫に潘仁美の娘がいたので、朝廷は処罰を見送った。そこで、六郎は楊家軍に協力的な八王・趙徳芳らと潘仁美を殺害する。その後、太宗に死期が近づくと八王と七王・趙恒との間で後継者をめぐるいざこざがあったが、八王が辞退したことで七王が即位、真宗皇帝となる。 太宗の崩御を知った遼は、再び宋との間の戦闘を開始する。しぶっていた六郎も母親に叱咤され、妹の八娘、九妹を率いて出陣する。見事に遼を撃退した六郎は、佳山の(明・清代の役職なので、宋代に存在するはずがないのだが)巡撫に任命される。任地に向かう途中、岳勝・孟良・焦賛らの山賊を配下に入れ、楊家軍はその戦力を増強する。 孟良が単身で遼に乗り込み、楊業の遺骨と遼の蕭后の名馬を盗んで帰ってくると、再び宋と遼との戦争が始まる。今は僧となっていた五郎や孟良、焦賛、妹たちの活躍もあって、再び六郎ら楊家軍は大勝を収める。しかし、戦争ではかなわない遼は、宋に派遣しておいたスパイである王欽を通じ、政治的に楊家軍の抹殺をたくらむ。はたして、王欽は佞臣に働きかけ、無佞府(楊家軍の基地)の取り壊しを奏上させる。これに怒り狂った楊家軍の焦賛は、無佞府の取り壊しをたくらんだ佞臣の一族を皆殺しにする。当然、焦賛のみならず六郎にも罪は及び、王欽の讒言もあって六郎に死刑が宣告される。なんとか八王・呼延賛らによって命を救われた六郎は、自身は死んだことにして無佞府に引きこもる。岳勝、孟良はもともと楊家軍の私兵のようなものだったので、六郎の死を聞くと山賊になり、流罪に処せられていた焦賛も脱走した。 思惑通り、六郎の抹殺に成功したと聞いた遼は、再度進軍を開始する。これに対し、楊家軍がいない宋は散々に打ち破られる。ついに、六郎は八王の救援依頼を受けると、かつての部下である丘勝、孟良、焦賛らと合流し、またも遼を打ち破り凱旋する。 再び宋と遼との戦争が始まるのであるが、ここからは八仙である呂洞賓が遼に、漢鍾離が宋に就いて徐々に荒唐無稽な展開になってゆく。呂洞賓の敷いた七十二座天門陣がどうしても破れない。ここで五郎が言うには、陣を破るには「降竜木」で作った斧が必要だというので、六郎の息子、楊宗保は、「降竜木」を求めて木閣塞に向かう。しかし、宗保は木閣塞で山賊の娘・穆桂英と戦闘になり敗北してしまう。宗保を打ち破った穆桂英は、宗保を気に入り、「私と結婚するなら助けてやる」と脅迫し、宗保はこれを承諾する。宗保の父である六郎はこれを聞いて怒り狂うが、やはり穆桂英に敗北し、しぶしぶ結婚を認める。こうして、穆桂英の加入により戦力を増した楊家軍は反撃に移り、七十二座天門陣を撃破する。その後、外からは楊家軍が、内部からは長年捕虜となっており、「木易」という偽名を使って蕭后の娘婿となっていた四郎が撹乱し、ついに蕭后は自決して果てる。王欽も処罰をうけ、一応の大団円を迎える。 しかし遼を倒した後、孟良・焦賛が相次いで不幸な死に方をし、これを聞いた六郎は失意のあまり病に罹り死亡する。また、楊家軍に好意的だった八王も風邪をこじらせ死亡する。 史実ではこの時期、宋は澶淵の盟という屈辱的な講和条件を飲まされており、まったく史実に反する展開になっている。
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