遼の時代
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奚王府率いる奚族は、契丹の五院部・六院部・乙室部と並んで四大部を構成した。奚族から后族の蕭氏が出て、遼の歴代皇后を輩出している。 1122年、奚の回離保が箭笴山で自立して、奚国皇帝を自称したが、わずか数カ月で金に滅ぼされた。遼の滅亡後、奚族の一部は耶律大石に従って西遷し、西遼の建国に参加した。金の領内に残った奚族は女真に同化し、あるいは漢族と同化したとみられる。西遼の奚族はしだいにイスラーム化していった。13世紀以降、奚族の民族的活動は史書に見られなくなった。
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遼の時代
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室韋は契丹に降ると、その属民として各遠征に参加したり、定期的に朝貢を行うようになる。 耶律阿保機7年(913年)10月、室韋は吐渾酋長の抜剌・迪里古ら五人とともに耶律阿保機の耶律剌葛討伐に参加し、前線の伏兵として北宰相の迪里古に従って耶律剌葛の衆を大破した。 会同元年(938年)2月、室韋は白麃に進んだ。9月、黒車子室韋は遼朝に名馬を貢納した。 会同3年(940年)8月、阻卜・黒車子室韋・賃烈などが遼朝に朝貢した。
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