遼代の兀惹国とは? わかりやすく解説

遼代の兀惹国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/23 15:57 UTC 版)

兀惹」の記事における「遼代の兀惹国」の解説

渤海滅亡後契丹支配下置かれ渤海国故地には、その後渤海遺民自立運動の結果定安国建てられた。981年定安国王烏玄明は女真使者託して北宋に「高麗の旧壌と渤海の遺黎を以て方隅に保拠す云々扶余府契丹背いて帰順し契丹脅威が迫る宋に救援依頼したい」等と上奏している。北宋も詔を以て宋・高麗定安三国による契丹包囲網形成された。北宋はまた「烏舎城浮渝府渤海琰府王」なる者に詔を下し契丹攻撃促している(「浮渝府」は「扶余府」と考えられる)。定安国北宋対し扶余府自国帰順した説明行っていたが、実際には烏舎国として独立していたことが窺える記録である。 986年契丹定安国攻撃し定安国滅亡したその後995年渤海人貴族烏昭慶が挙兵したが(「兀惹国」)、翌996年契丹降伏した契丹への抵抗運動後渤海国引き継がれる

※この「遼代の兀惹国」の解説は、「兀惹」の解説の一部です。
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