遺構の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:58 UTC 版)
震災遺構として保存された校舎は、鉄筋コンクリート造による2階建て(一部平屋)の教室棟から、エキスパンションジョイントを介して鉄筋コンクリート製のブリッジにより2階レベルでプール棟(機械室・クラブ室・更衣室を含む)へと接続され、さらに体育館棟(鉄筋コンクリート造と木造による混構造)へとつながっており、その横には野外ステージと相撲場(現存せず)が建てられていた。これら体育施設と教室棟とがグラウンドをコの字型に取り囲む平面構成を成していた。 外観に最も特徴のある教室棟は、児童たちが登下校に用いた平屋の昇降口部分を挟んで右側に1・2年生のための低学年教室が配置され、左側にアセンブリーホールと呼ばれた多目的スペースが配置されていた。また、アセンブリーホールに続く四分の一円の平面形を成す2階建ての棟には、3年生以上の教室と、職員室を含む事務系の各室や各種特別教室が配置される構成となっていた。 がれきに埋もれた被災後の捜索活動において、低学年教室の腰壁部分は重機などによって解体されたため現存せず、現状は、あたかも往時は全面窓であったかのような状態を見せている。 教室棟で四分の一円の平面形を持つ中高学年教室の中ほど辺りで、津波の濁流が室内に充填された結果、2階の床スラブが水圧で押し上げられ、凸型に隆起変形した状態になっている。また、教室棟2階は中庭に向いた片流れ勾配屋根を持っており、屋根勾配に沿った勾配天井が2階教室には作られていたが、この勾配天井にはくっきりとした波状痕を確認することができ、津波の到達レベルが現在でも明確に目視できる状態を残している。 教室棟とプール棟を繋いでいたブリッジは、津波の水圧を受けて校舎側のエキスパンションジョイント部分で切れている。ブリッジは海側に向かって倒壊していることから、最初に校舎を襲った津波は海から平野部を伝ってやってきたのではなく、北上川を遡上した河川津波の方であり、その結果としてブリッジが海に向かってなぎ倒されたと推測されている。また、プール棟側から伸びるブリッジの根本部分は倒壊によってねじ切られており、プール棟階段室の曲面壁にぶつかって止まっている。逆に、ブリッジの倒壊を受けたプール棟階段室の曲面壁は、ブリッジを介した津波の高圧を受けて微妙に変形している。プールは低学年用の小プールと25 mの大プールとがあったが、ともに土砂で埋もれており、プールサイドは水平面を残して腰壁などは流出している。小プールを埋めた土砂はボランティアによって清掃され、25 mプールを埋めた土砂は遺構整備の際に清掃されている。 体育館は四隅の鉄筋コンクリート部分を除いて、非耐力壁や、小屋組み、床などの木造部分がすべて消失している。 野外ステージは、ステージ背後に立てられていた鉄筋コンクリート製の反響版が、津波の水圧によって根元からステージ側に倒壊した状態で残っている。また、野外ステージのグラウンド側壁面には、児童たちによって描かれた壁画が残っている。この壁画は大川小学校校歌のタイトルであった「未来を拓く」という言葉とともに、校歌に歌われた世界観が表現されている。 全体として、遺構と校庭は、数多くのボランティア、卒業生、遺族、元教員、近隣住民たちの手によって清掃活動が続けられ、各種遺留品は遺構内部に整然と並べられている。また、遺構校舎内に残存していた遺留品のうち、津波の到来時で止まった複数の時計の中の1台と、児童たちが親しんでいた多数の一輪車のうちの2台とが、大川震災伝承館の展示室内に移設展示されている。さらに、アセンブリーホール内に大破した状態で残る木製の校歌額のレプリカがボランティアの手によって作成され、これも同館内に展示されている。
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