連邦革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 15:31 UTC 版)
1899年、錫財閥と結託した自由党が起こした保守党政権の転覆を図った闘争は、それまでに制定されていた1874年法に反感を持つ先住民たちを巻き込み、連邦革命と呼ばれる大きな内乱へと発展した。 保守党政権転覆にあたり、1874年法に反感を持つ先住民を利用しようと考えた自由党は、先住民指導者パブロ・サラテ・ウィリュカと先住民共有地の返還、先住民政府の樹立などを条件に協力を取り付けた。この同盟により自由党は保守党転覆に成功したが、先住民の急進化を危惧し、先住民側との協約を一方的に破棄し、それまで以上に先住民を弾圧するようになった。 自由党政権として最初に選出されたホセ・マヌエル・パンドは、当初掲げていた地方の権限を強化する連邦制は時期尚早であるとして放棄した。ラパスに首都機能を移し、本格的な経済対策に取り掛かろうとした。 しかし同1899年、自動車産業の発達に伴うゴム産業の活性化で、アマゾン流域のアクレ地方で活動するゴム業者ルイス・ガルベスがアクレ地方のボリビアからの分離独立を宣言した(アクレ紛争)。分離運動は1901年4月までに一応の鎮圧を見たが、政権獲得と先住民への対応で疲弊していたボリビア政府は同地方の継続的な管理行政能力に行き詰まりを感じ、ニューヨークに拠点を構える米国系企業ボリビア・シンジケート社にアクレ地方の管理開発を委託した。南米地域にアメリカの直接介入がなされることを恐れたブラジル政府はボリビア政府に強く抗議し、委託の撤回を求めた。 1902年8月、ブラジル人ゴム業者プラシド・カストロにより再度のアクレ地方独立分離運動が起こる。これに呼応するようにブラジルはアクレ地方へ派兵し、1903年4月にはプエルト・アロンソなどの主権地域を占領した。兵力差が歴然であったボリビア政府は外交的解決の道を模索し、同年11月、ペトロポリス条約が締結され、200万ポンドの補償金と同地の鉄道敷設権と引き換えに、19万平方キロに及ぶアクレ地方のブラジルへの割譲を余儀なくされ、アクレ地方はアクレ州としてブラジルに編入された。
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