連邦離脱と南部連邦の設立
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「ロバート・トゥームズ」の記事における「連邦離脱と南部連邦の設立」の解説
トゥームズは北部諸州の奴隷解放論者に反対する主張を展開した。1860年の大統領選挙ではジョン・ブレッキンリッジを支持したが、共和党のエイブラハム・リンカーンに敗れると、トゥームズは間もなく「ジョージア州の連邦離脱の是非を問う投票を3月4日までに実施すべきである」との電報をジョージア州へ送った。 1861年1月7日、トゥームズは上院議員を辞任する旨の演説を行い、ジョージア州へ戻った。そしてジョージア州知事ジョセフ・ブラウンとともに連邦離脱を主張し、離脱反対派のアレクサンダー・ステファンやハーシェル・ジョンソンと論戦を繰り広げた。 これらの論争は、南部諸州による新国家の長となる野心をトゥームズに与えた。しかしながら1861年2月18日、南部諸州によって設立されたアメリカ連合国の大統領にジェファーソン・デイヴィスが選出されると、トゥームズは連合国の政策に対する批評家となる道を望んだ。だがトゥームズの思惑とは逆に、デイヴィスはトゥームズを連合国の初代国務長官に指名した。トゥームズはデイヴィスのこの要請に対し、数ヶ月間という約束で受諾した。 1861年2月25日、アメリカ連合国の初代国務長官に就任したトゥームズは、まず合衆国との外交関係を確立するため、ワシントンD.C.へ使節を派遣した。しかしながら合衆国のエイブラハム・リンカーン大統領はアメリカ連合国を国家として承認しないことを既に表明していたため、使節の応対に当たった合衆国国務長官ウィリアム・スワードは、そのことを説明した上で使節を追い返した。 連合国の首都モンゴメリーに帰還した使節は、トゥームズに対し「戦争が起こりそうな臭いがする」と報告した。トゥームズはデイヴィス大統領にこのことを伝達したが、デイヴィス大統領は「寛容に構えよ」と応えるだけに終わった。 だがトゥームズはそれに納得せず、連合国の対応を議会にゆだねることに成功した。そして1861年4月12日、連合国はサウスカロライナ州チャールストンに残された合衆国のサムター砦に砲撃を開始し、南北戦争が開戦した。 1861年5月21日、連合国議会は休会期間を7月20日まで延長し、首都をリッチモンドに遷した。トゥームズは武器獲得のためヨーロッパに綿を輸出することを提案したが、デイヴィス大統領はそれを拒否した。さらにデイヴィス大統領はイギリスとフランスへの綿輸出停止を命令し、トゥームズを憤慨させた。 そして1861年7月21日、トゥームズは国務長官を辞職し、連合国陸軍での任務を受諾した。
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