連邦離脱と南部連邦の設立とは? わかりやすく解説

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連邦離脱と南部連邦の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 04:24 UTC 版)

ロバート・トゥームズ」の記事における「連邦離脱と南部連邦の設立」の解説

トゥームズは北部諸州奴隷解放論者反対する主張展開した1860年大統領選挙ではジョン・ブレッキンリッジ支持したが、共和党エイブラハム・リンカーン敗れると、トゥームズは間もなくジョージア州連邦離脱是非を問う投票3月4日までに実施すべきである」との電報ジョージア州送った1861年1月7日、トゥームズは上院議員辞任する旨の演説行いジョージア州戻った。そしてジョージア州知事ジョセフ・ブラウンとともに連邦離脱主張し離脱反対派のアレクサンダー・ステファンやハーシェル・ジョンソンと論戦繰り広げた。 これらの論争は、南部諸州による新国家の長となる野心をトゥームズに与えたしかしながら1861年2月18日南部諸州によって設立されアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィス選出されると、トゥームズは連合国政策対す批評家となる道を望んだ。だがトゥームズの思惑とは逆にデイヴィスはトゥームズを連合国初代国務長官指名した。トゥームズはデイヴィスのこの要請対し数ヶ月間という約束受諾した1861年2月25日アメリカ連合国初代国務長官就任したトゥームズは、まず合衆国との外交関係確立するため、ワシントンD.C.使節派遣したしかしながら合衆国エイブラハム・リンカーン大統領アメリカ連合国国家として承認しないことを既に表明していたため、使節応対当たった合衆国国務長官ウィリアム・スワードは、そのこと説明した上で使節追い返した連合国首都モンゴメリー帰還した使節は、トゥームズに対し戦争起こりそうな臭いがする」と報告した。トゥームズはデイヴィス大統領にこのことを伝達したが、デイヴィス大統領は「寛容構えよ」と応えるだけに終わった。 だがトゥームズはそれに納得せず、連合国の対応を議会ゆだねることに成功した。そして1861年4月12日連合国サウスカロライナ州チャールストン残され合衆国サムター砦砲撃開始し南北戦争開戦した1861年5月21日連合国議会休会期間を7月20日まで延長し首都リッチモンドに遷した。トゥームズは武器獲得のためヨーロッパに綿を輸出することを提案したが、デイヴィス大統領はそれを拒否した。さらにデイヴィス大統領イギリスフランスへの綿輸出停止命令し、トゥームズを憤慨させた。 そして1861年7月21日、トゥームズは国務長官辞職し連合国陸軍での任務受諾した

※この「連邦離脱と南部連邦の設立」の解説は、「ロバート・トゥームズ」の解説の一部です。
「連邦離脱と南部連邦の設立」を含む「ロバート・トゥームズ」の記事については、「ロバート・トゥームズ」の概要を参照ください。

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