退散決行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 05:41 UTC 版)
「亀田藩士秋田退散事件」の記事における「退散決行」の解説
1761年(宝暦11年)4月16日に亀田藩からの脱藩が決行された。17日の早朝、雄物川の川口舟守から町奉行所宛に、亀田家中の者2人と女1人が通り、噂によれば亀田家中600人ほどが秋田領内に入ったとの報告が上げられた。同時に町内の者からも亀田家中130人ほどが秋田をめざしたとの報告があった。秋田藩は中間を走らせ、川筋での渡船の往来を禁じる措置を取った。 秋田藩は巡見使の入国が近いことを理由に彼らが久保田城下に入ることを断って荒屋村に留めることにし、同時に物頭らが足軽を率いて警戒にあたった。荒屋村の忠泉寺に100人余り、天龍寺には有力家臣3人とその従者が逗留した。噂では、さらに後を追って合流する者もいるという。 この事態に驚いた亀田藩からは、物頭の神保弥太郎が秋田藩に来藩して脱藩者を留め置くように頼んだ。また、秋田藩からは20日に物頭の川井と酒井孫右衛門が亀田藩に行き、重役に会って22日に帰藩した。こうした交渉と、江戸での関係者の相談によって、秋田藩の番頭である福原彦太夫と梅津内蔵允が荒屋村に出向き、3人とその従者を除く100人ほどを説得して帰藩させた。有力家臣3人ら35人は上野川村(後に川尻村)に移され、物頭らが交代で付き添った。 史料によって差異があるが、亀田藩の武士100人余り、4人に1人が脱藩したことになる。亀田藩では、帰国してもその罪は黙認する方針であたった。しかし、直ぐに帰国したものは極めて少数であった。4、5人は途中から引き返して、これまで例がない待遇を受けた。
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