近鉄劇場とは? わかりやすく解説

近鉄劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 09:08 UTC 版)

近鉄劇場
Kintetsu Theater
情報
通称 近鉄劇場・近鉄小劇場
正式名称 近鉄劇場
旧名称 近鉄会館
(上六映画劇場・上六地下劇場)
完成 1954年12月
開館 1985年10月3日
開館公演 バラエティショー「ザ・シアター」
(近鉄劇場)
劇団第七病棟「ビニールの城」
(近鉄小劇場)
閉館 2004年2月4日
最終公演 ふるさときゃらばん「パパの明日はわからない」(近鉄劇場)
イッセー尾形「最後の最後の上本町」
(近鉄小劇場)
収容人員 (2館合計)1,374人
客席数 近鉄劇場:954席
近鉄小劇場:420席
用途 演劇
旧用途 映画館
運営 近鉄興業株式会社
所在地 543-0001
大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目5-28
アクセス 大阪市営地下鉄谷町線千日前線 谷町九丁目駅から徒歩4分
近鉄大阪上本町駅南向い
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近鉄劇場(きんてつ げきじょう)は、大阪市天王寺区上本町六丁目にあった劇場近畿日本鉄道が所有し、子会社の近鉄興業が運営していた。2010年平成22年)8月26日に大阪新歌舞伎座の新しい劇場を設置した複合ビル「上本町YUFURA」に生まれ変わった(後述)。

概要・略歴

1938年昭和13年)3月大阪電気軌道上本町駅南側に設立された映画館大軌小劇場」が前身。当時は洋画のみならず、ニュース映画短編映画も上映していた[1]。その後近畿日本鉄道への改組を機に「上六小劇場」と改めたが、1954年昭和29年)12月、「上六近鉄会館」として改築・再開業した。設計は村野・森建築事務所、施工は大林組が担当[2]。地上階に主に洋画を上映する『上六映画劇場』、地階に主に邦画を上映する『上六地下劇場』が設置された[3]。近鉄会館開業までの天王寺区の映画館は、玉造東宝映画劇場、ヤマト館、三光館、三和劇場の4館のみだった[注 1]

1985年(昭和60年)、上本町駅ターミナル整備(都ホテル大阪や駐車場、観光バスセンターの建設など)の一環として、全面的な改装を実施、上六映画劇場は近鉄劇場に、地階の上六地下劇場は近鉄小劇場として、同年10月3日にリニューアルオープンした。プロデュースは元『プレイガイドジャーナル』誌の演劇担当の松原利巳が担当した。

近鉄劇場は954席[注 2]を設け、劇団四季OSK日本歌劇団、ABCミュージカルなどのミュージカル演劇コンサートといった公演に使われた。一方、近鉄小劇場は420席を設け、小劇団の公演などが数多く行われた。近鉄劇場、近鉄小劇場とも東京の劇団、上演団体の公演が数多くおこなわれ、大阪に東京演劇の最新動向を伝える役割を果たした。

また、隣接した旧近鉄本社ビル(1936年築)も改装されて近鉄劇場別館ビルとなり「近鉄資料室」が地下に設置されたほか、朝日放送の運営により新進アーティストの作品を展示する「ABCギャラリー」を設置した(のち閉鎖)。また、上本町駅ビルとの間の空間は「シアタースクエア」と名付けられた広場となった。

2000年代に入ると、近鉄グループの再建策の中でレジャー部門の抜本的な見直しが行われることになり、近鉄あやめ池遊園地など遊園地も閉鎖された。またOSK日本歌劇団の解散が行われ当劇場も開業以来赤字が続き、施設の老朽化に加え観客の減少も相まって、2004年(平成16年)2月4日に閉鎖となり、大軌小劇場時代から通算して66年の歴史にピリオドを打った。なお、同年には大阪近鉄バファローズも創設から55年の歴史に幕を下ろした。

近鉄劇場閉鎖から10ヵ月後、同年12月には扇町ミュージアムスクエア大阪ガスが運営)も閉鎖されたことから、大阪における演劇文化の衰退を危惧する声も聞かれた。

再開発計画

閉鎖後は飲食店が一部残った状態で、建物の解体や再開発計画は進まなかったが、難波にあった大阪新歌舞伎座(旧・大阪歌舞伎座)が老朽化のため2009年(平成21年)6月30日をもって閉館し、近鉄劇場跡に移転することが2007年(平成19年)4月に決定した。2008年(平成20年)より旧劇場の解体と新ビルの建設が進められ、2010年(平成22年)1月15日、近鉄は再開発ビルの名称を「上本町YUFURA(ユフラ)」に正式決定、近鉄創業100周年となる同年8月26日に、新歌舞伎座とともにグランドオープンした。「YUFURA」の名称は大阪市内在住の女性によるもので、「ゆらりふらり」と気軽に立ち寄れる場所をイメージして名付けられた[6]

関連書籍

  • 宮川龍太郎『近鉄劇場終演まで ― 順風・逆風・自分風』新風舎、2005年4月15日刊行

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 1953年の映画館(近畿地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[4]
  2. ^ 文献によっては930席とするものもある[2][5]

出典

  1. ^ 第8回 戦前期日本の映画館写真(6)―大阪 新世界 なんば 梅田 阿倍野篇”. NFC Digital Gallery. 東京国立近代美術館フィルムセンター (2014年9月8日). 2017年10月17日閲覧。
  2. ^ a b 近鉄劇場および近鉄小劇場の音 (PDF)大林組
  3. ^ 近畿日本鉄道『80年のあゆみ』(社史、1990年)P.120、140、141
  4. ^ 『全国映画館総覧 1953年版』時事通信社, 1953年
  5. ^ 近畿日本鉄道『80年のあゆみ』(社史、1990年)P.233
  6. ^ ニュースJAPAN2010年6月21日付・関西テレビ放送の大阪府向けローカルニュースより




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