近現代:皇室典範の制定
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「皇室典範 (1889年)」および「皇室典範」も参照 1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法と同日に公布された皇室典範(いわゆる旧皇室典範)において、外国王室との婚姻を防ぐため、皇族女子の婚姻相手は皇族・華族に限定された。ただし、制定に至る議論の中、西洋の「プリンセス」が婚姻後も身位や称号を維持できることと比し、降嫁によって内親王・女王の身位を喪失することが不当であるとの主張もあり、特旨によりその身位を保持する余地が残された。1920年(大正9年)4月に、王族の李垠と婚姻した梨本宮家の方子女王が、大正天皇の「御沙汰」によって、婚姻後も女王の身位を保持している。 この旧皇室典範下においては、「内親王の降嫁」事例は存在しなかった。女王は多くが、華族の当主または継嗣との婚姻を行った。 1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法と同日に施行された皇室典範により、皇族女子は皇族男子以外と婚姻した場合は、例外なく皇室を離れることとされ、身位保持の余地もなくなった。孝宮和子内親王が鷹司平通と婚姻することで、文久2年(1862年)の和宮降嫁以来89年ぶりの「内親王の降嫁」事例が発生した。鷹司家は、五摂家の旧公爵家であったが、華族制度廃止により「平民」となっていた。その妹清宮貴子内親王においては華族出身ではあったが継嗣ではない(佐土原藩主家の次男である)島津久永と婚姻、より狭義の「平民」に相当する人物と内親王との初の婚姻事例となる。 その後三笠宮家出身の容子内親王が初めて、皇族・華族の血を直接引かない広義の平民出身者である千宗室と婚姻、紀宮清子内親王が同様に天皇の皇女としては初めて旧華族ではない平民出身者である黒田慶樹と婚姻している。
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