輸送:鉄道フィーバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 17:14 UTC 版)
「アイオワ州の歴史」の記事における「輸送:鉄道フィーバー」の解説
19世紀半ばに多くの開拓者がアイオワに流入し、あらゆる者が共通して適切な輸送手段の開発に関心を抱いた。初期開拓者はミシシッピ川を船でニューオーリンズまで下ってその農業生産物を運んだが、1850年代までにアイオワの人々は国全体の鉄道フィーバーに囚われた。合衆国で初めての鉄道は1831年のボルティモア近くに造られ、1860年までにシカゴには1ダースもの路線が集まった。アイオワの人々は他の中西部住人と同様に自分たちの州にも鉄道建設を開始することを切望するようになった。 1850年代初期、川に沿った地域社会であるダビューク、クリントン、ダベンポートおよびバーリントンといった都市の役人たちが地元の鉄道会社を組織し始めた。都市の役人たちはシカゴから西の鉄道建設はまもなく、この4市のミシシッピ川対岸まで届くことを知っていた。1850年代に計画された鉄道は結果的にイリノイ・セントラル鉄道の開発に繋がり、シカゴ・アンド・ノースウェスタン鉄道は1867年にカウンシルブラフスまで伸びた。カウンシルブラフスはユニオン・パシフィック鉄道の東の終点と考えられ、結果的に合衆国に西半分に伸びるセントラル・パシフィック鉄道と共に初めての大陸横断鉄道となった。少し後には5本目の鉄道シカゴ・ミルウォーキー・セントポール・アンド・パシフィック鉄道もその州内を通る路線が完成した。 アイオワを通る5本の鉄道の完成で、大きな経済的変化がもたらされた。特に重要なものは、アイオワが一年中いつでも旅できることだった。19世紀後期と20世紀初期では、アイオワの小さな町でも1日6便の旅客列車が走った。蒸気船や駅馬車が早くから輸送手段になっていたが、どちらも天候への依存度が高く、蒸気船の場合、川が凍れば全く動けなかった。鉄道はアイオワの農夫にも一年中輸送手段を与えた。シカゴに鉄道が集まって隆盛すると、トウモロコシ、小麦、牛肉および豚肉などアイオワの農夫が生産したものがシカゴを通って国を横切り東海岸の海港に運ばれ、そこから世界中に積み出された。 鉄道はアイオワの工業部門にも大きな変化をもたらした。1870年以前、アイオワ州東部には幾つかの製造業があり、特に鉄道の一年中輸送によって恩恵を受けた。新しい製造業の多くは農業に関連があった。シーダーラピッズでは、ジョン・スチュアートとロバート・スチュアート兄弟がその従兄弟ジョージ・ダグラスと共にオートムギの精製工場を始めた。時代が移ってこの会社はクエーカー・オーツと名前が付いた。1870年代には州内の幾つかの場所で、食肉加工工場も現れた。シンクレア食肉加工はシーダーラピッズに開設され、ブージ・アンド・カンパニーはスーシティで、ジョン・モレル・アンド・カンパニーはオッタムワで操業を始めた。
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