越前幸若流とは? わかりやすく解説

越前幸若流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)

幸若舞」の記事における「越前幸若流」の解説

上述いくつかの文献によれば幸若舞曲創始したのは、源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫(あるいはひ孫)の桃井直詮で、幼名幸若丸といったことから「幸若舞」の名が付いたとされる幸若丸は越前生まれ。『八郎九郎家之系図』のひとつには、明徳4年1393年)生、文明2年庚子1471年78歳没したとあるが、干支あわない。『弥次郎家系譜庚子文明12年1481年)の誤りか、逆に「庚刁」(「庚寅」の略字)の誤字という可能性もあるという。『幸若系図之事』では生年応永12年1405年)と記す、比叡山入り学問修めたその後京都宮仕えとなり、歌舞音楽通じ優れた才が認められ、やがて「幸若舞」という芸を作り上げたとされる16歳時に天台座主に伴い朝廷にゆき、称光上皇の勅で宮中召し抱えられた、との記述がある。この京都平家の本を幸若似の音曲で語る者に師事し、この「師伝の外なる妙曲」を工夫した、と、このように幸若系図之事』では記している。 ただし、幸若舞創出したいきさつについては、文献によって様々に伝わっている。ひとつには声明巧みだったため、地福大夫という舞大夫舞々=「曲舞」の名人)に師事して張良」・「満仲」を習ったことから始まり天皇召し抱えられた、あるいは「八島軍」という草子に節をつけて謡ったのが評判になったのが「幸若舞」の始まり、などである。 幸若勅命により、禁裏より賜った草紙36冊に節をつけたが、この36曲(長中短の分類で各12曲)が幸若家の曲本となった幸若丸は、やがて足利将軍義政知遇を得、生国越前国丹生郡知行を賜って、生地である法泉寺住んでいた。 こうして桃井幸若丸が、幸若という一座開き、「幸若家」を起こしたものが、越前幸若流、あるいは幸若正統などと呼ばれる。これは幸若氏(桃井八郎九郎弥次郎・小八郎)の3つの分派伝承された。隆盛期は、戦国・安土桃山時代で、織田信長豊臣秀吉らから知行等を受け、徳川家康幕府を開くと、300石で召し抱えられ、3家が、3番交代制務めていた。3家は越前国丹生郡西田中居住していた、と記録見える。。『武鑑』の年々記録にも、幕末まで俸禄遇されていたことが見えるが、江戸幕府崩壊と共に禄が途絶える廃業に至る。

※この「越前幸若流」の解説は、「幸若舞」の解説の一部です。
「越前幸若流」を含む「幸若舞」の記事については、「幸若舞」の概要を参照ください。

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