越前幸若流
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上述のいくつかの文献によれば、幸若舞曲を創始したのは、源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫(あるいはひ孫)の桃井直詮で、幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が付いたとされる。 幸若丸は越前で生まれ。『八郎九郎家之系図』のひとつには、明徳4年(1393年)生、文明2年庚子(1471年)78歳で没したとあるが、干支があわない。『弥次郎家系譜』庚子の文明12年(1481年)の誤りか、逆に「庚刁」(「庚寅」の略字)の誤字という可能性もあるという。『幸若系図之事』では生年は応永12年(1405年)と記す、比叡山に入り学問を修めた。その後、京都で宮仕えとなり、歌舞音楽に通じる優れた才が認められ、やがて「幸若舞」という芸を作り上げたとされる。16歳の時に天台座主に伴い朝廷にゆき、称光上皇の勅で宮中に召し抱えられた、との記述がある。この京都で平家の本を幸若似の音曲で語る者に師事し、この「師伝の外なる妙曲」を工夫した、と、このように『幸若系図之事』では記している。 ただし、幸若舞を創出したいきさつについては、文献によって様々に伝わっている。ひとつには声明が巧みだったため、地福大夫という舞大夫(舞々=「曲舞」の名人)に師事して「張良」・「満仲」を習ったことから始まり、天皇に召し抱えられた、あるいは「八島軍」という草子に節をつけて謡ったのが評判になったのが「幸若舞」の始まり、などである。 幸若は勅命により、禁裏より賜った草紙36冊に節をつけたが、この36曲(長中短の分類で各12曲)が幸若家の曲本となった。 幸若丸は、やがて足利将軍義政の知遇を得、生国の越前国丹生郡に知行を賜って、生地である法泉寺村に住んでいた。 こうして桃井幸若丸が、幸若という一座を開き、「幸若家」を起こしたものが、越前幸若流、あるいは幸若の正統などと呼ばれる。これは幸若氏(桃井八郎九郎・弥次郎・小八郎)の3つの分派に伝承された。隆盛期は、戦国・安土桃山時代で、織田信長、豊臣秀吉らから知行等を受け、徳川家康が幕府を開くと、300石で召し抱えられ、3家が、3番交代制で務めていた。3家は越前国丹生郡西田中村に居住していた、と記録に見える。。『武鑑』の年々の記録にも、幕末まで俸禄に遇されていたことが見えるが、江戸幕府崩壊と共に禄が途絶えると廃業に至る。
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