薊城へ到達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
350年2月、後趙の大将軍冉閔が皇帝石鑑や後趙の皇族を虐殺すると、自ら鄴で帝位に即いて国号を「大魏」と定めた(冉魏の建国)。 この混乱を好機と見た慕容儁は遂に計画を実行に移し、三軍を率いて征伐を決行した。まず、慕容覇に2万の兵を与えて東道から徒河へ進ませ、将軍慕輿干に西道から蠮螉塞へ進ませ、慕容儁自らは中道から盧龍塞へ進んだ。また、慕容恪・前鋒将軍鮮于亮を軍の前鋒とし、さらに軽車将軍慕輿泥に命じて槎山の道を切り開かせた。また、世子の慕容曄には龍城の留守を命じ、内史劉斌を大司農に任じて典書令皇甫真と共に補佐を委ね、まだ幼い慕容曄の代わりに政務・事務全般を管轄させた。 慕容覇軍が三陘まで到達すると、安楽を守備する後趙の征東将軍鄧恒は大いに恐れ、倉庫を焼き払って安楽から撤退し、後趙の幽州刺史王午と合流して薊城に籠った。前燕の徒河魯口南部都尉孫泳は急ぎ安楽に入城すると、消火を行って穀物や絹布を保護した。その後、慕容覇もまた安楽に入城すると、北平郡の兵糧を確保した上で再び出撃し、臨水へ進んで慕容儁の本隊と合流した。 3月、慕容儁は無終へと軍を進めた。王午は将軍王佗に数千の兵を与えて薊城の守備を任せると、自らは鄧恒と共に逃亡して魯口に入城した。慕容儁は薊へ到達するやすぐさま城を攻め落とし、王佗を捕らえて処断した。この時、慕容儁は捕らえた敵兵千人余りを尽く生き埋めにしようとしたが、慕容覇はこれを諫めて「趙が暴虐であるから王師(王の軍勢)がこれを討伐しているのです。まさに今、泥にまみれ火に焼かれるような苦しみから民を救い出し、中州を慰撫しようとしている所なのです。それなのに、始めて薊城を陥としたばかりでもう士卒を生き埋めになさろうとする。これでは王師の名声など貰えませんぞ」と訴えたので取りやめた。これ以降、中原の民は次々と前燕の下に集うようになり、幽州の大半の地域が前燕に靡いた。慕容儁は薊城を中原攻略の拠点として定め、徐々に首都としての機能を龍城から移管させていった。
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