慕容儁とは? わかりやすく解説

慕容儁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/03 15:11 UTC 版)

慕容 儁(ぼよう しゅん、拼音:Mùróng Jùn)は、五胡十六国時代前燕の第2代王にして初代皇帝。は宣英。小字(幼名)は賀頼跋[1]昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の人。即位当初は燕王を称し(在位:349年 - 352年)、後に大燕皇帝を称した(在位:352年 - 360年)。慕容皝の次男であり、弟に慕容恪慕容垂・慕容納・慕容徳らがいる。母は段夫人(段部単于宗女


  1. ^ 『十六国春秋』による
  2. ^ 慕容皝の長男の名は伝わっていないが、おそらくこれより以前に亡くなっていると思われる。
  3. ^ 『資治通鑑』では348年11月だが、『十六国春秋』では349年1月に即位している
  4. ^ a b 『資治通鑑』では慕容交とする
  5. ^ 東晋の元号は廃したものの、その傘下から離脱したわけではないので、独自の元号は存在しない
  6. ^ 『資治通鑑』では4月の出来事とするが、『十六国春秋』では7月の出来事とする
  7. ^ 『晋書』慕容儁載記・『十六国春秋』による。『資治通鑑』『晋書』帝紀第8では幽平二州牧とする
  8. ^ 慕容垂は「石虎の凶暴残虐な様は極まっており、天すらもこれを見捨てました。僅かに残った子孫も、魚の如く互いの肉を食い合っております。今、中国は倒懸(逆さまに吊るされる事)する程の苦しみを味わっており、みな仁恤(憐れんで情けを掛ける事)を待ち望んでおります。もし大軍で一撃を与えれば、その勢いで必ずや征伐出来るでしょう」と上書した。孫興もまた「石氏は大乱に陥っており、今こそ中原奪取の好機かと」と上表した。
  9. ^ 慕容垂は慕容儁へ「得難くして失い易いのが時というものです。万一石氏が衰弱から再興したならば、あるいは他の英雄がこれに取って代わったならば、ただ大利を逃すのみならず、後患が怖ろしくなりましょう」と訴え、改めて出兵を請うた。これに慕容儁は「中で乱が起こったといえども、鄧恒が楽安(現在の北京市順義区の北西)に拠っており、その兵は強く兵糧も充足している(鄧恒は後趙の征東将軍であり、当時前燕との国境の最前線である安楽を守備していた)。今もし趙を討とうとしても、東道は通れまい。そうなれば盧龍を通るしかないが、盧龍山は険しく道が狭い。虜(蛮族の事。ここでは後趙を指す)どもに高所を取られてしまえば、全軍の煩いとなる。これをどう考える」と問うと、慕容垂は「鄧恒が石氏の為に我らを阻もうとも、その将兵は郷里へ帰りたがっております。大軍で臨んだならば自ずと瓦解する事でしょう。臣(慕容垂)は殿下(慕容儁)の為に前駆となって東へ進み、徒河から密かに令支(現在の河北省唐山市遷安市の南西)まで赴き、その不意を衝きます。これを聞けば奴らは必ずや震駭し、上は城門を閉じて籠城することも出来ず、下は城を棄てて逃潰することしょう。どうして我を阻むことなど出来ましょう!そうすれば殿下は安全に進軍することが出来、難を留めることもないでしょう」と答えた。
  10. ^ 封奕は「用兵の道において、敵が強ければ智を用い、敵が弱ければ勢を用います。これにより、大をもって小を呑むのは狼が豚を食べるが如しであり、治をもって乱を終わらせるのは太陽が雪を融かすが如く容易な事であります。大王(前燕の君主)は代々徳を積んで仁を累ね、兵士を訓練して強化してこられました。石虎は暴逆を極め、死しても誰からも悲しまれず、子孫は国を争い、上も下も乖乱しております。中国の民は泥にまみれ火に焼かれるような苦しみを味わっており、首を長くして苦境からの脱却を待ち望んでおります。大王がもし兵を挙げて南へ進み、まず薊城を取り、次いで鄴都を方針に定めれば、その威徳は宣耀され、遺民は懐撫される事でしょう。そうすれば、人々は必ずや老若を問わずに大王を迎え入れ。凶党はその旗を見ただけで潰散します。どうして破れない事がありましょうか!」と述べ、慕容垂の考えに同意した。
  11. ^ 従事中郎黄泓「今、太白が天を経て、その光陰が北へ全て集っております。これは天下の主が代わり、陰国(夷狄の国)が天命を受けるという事を示しております。これは必然の験です。どうか速やかに出師し、天意に従われますよう」と進言した。 折衝将軍慕輿根は「中華の民は石氏の乱に苦しんでおり、主人を変えて烈火の急を救おうとしているのです。王子(慕容垂)の言はまさに千載一遇の好機であり、これを逃してはなりません。武宣王(慕容廆)の時代より、賢人を招いて民を養い、農業を振興し兵を訓練して参りました。全ては今日の為です。天意ですら海内(中華の領内)を平定させようとしているのに、なぜ大王は天下を取ろうと考えないのですか!」と訴えた。
  12. ^ 『資治通鑑』では慕輿干とするが、『十六国春秋』では慕輿根とする
  13. ^ 楽安は安楽とも記載される
  14. ^ 臨水とも記載される
  15. ^ 泃河は河北省興隆県を源流とし、北京市平谷区を通って蓟運河へ流れ込んでいる。
  16. ^ 范陽郡には涿・良鄕・方城・長鄕・遒・故安・范陽・容城の8つの県がある
  17. ^ 拓跋部の領有する代国とは異なる
  18. ^ 城主を指す
  19. ^ 「資治通鑑」胡三省注によれば、侯釐とは恐らく鮮卑の部帥(部族の統率者)の称号では無いかとする。
  20. ^ 折衝将軍慕輿根へ「敵の士気は旺盛だ。一旦退却すべきではないか」と尋ねると、慕輿根は顔つきを改めて「我等は多勢で敵方は無勢。真っ向勝負では敵わないので、万一の僥倖を願って夜襲を掛けたに過ぎません。我等は賊を討伐する為にここまで来て、今その賊が目の前にいるのです。何を躊躇なさることがあるのです!大王はただ横になって居られて下さい。臣等が大王の為に敵を撃破して見せましょう!」と答えた。
  21. ^ 姚弋仲は後趙に仕えている。
  22. ^ 慕容儁は記室封裕を介して「冉閔は石氏の養息でありながら、その恩に背いて反逆した。その上、どうして大号を称したか!」と詰問させた。これに常煒は「を追放し、武王を討ち、の大業を興したのです。曹孟徳(曹操)は宦官の養孫であり出自は定かではありませんが、の基盤を築きました。これが天命でなければ、彼らはどうして成功したでしょう!これらの事を推し量りますに、そのような事を言われる道理はありますまい!」と言い返した。封裕はまた「冉閔が即位した時、自らの行く末を占うために金を鋳造して自らの像を作ろうとしたが、完成しなかったと聞く。これは事実であるか」と問うと、常煒は「そのようなことは聞き及んでおりません」と答えた。封裕は更に「南から来た者はみなこの事を言っているのに、どうして隠すというのか」と詰め寄ると。常煒は「姦偽の人というのは、天命を偽って人を惑わせようとするものです。そのような輩は、符瑞や蓍亀に仮託して自身を重んじるといいます。魏主(冉閔)は符璽(伝国璽)を握って中州に拠っておられます。受命を疑う要素など何一つないというのに、どうして真を偽として金像などで決めつけてよいものでしょうか!」と反論した。次いで封裕は「その伝国璽はどこにあるというのか」と問うと、常煒は「鄴にあります」と答えた。封裕は「張挙の言によると、襄国にあったものが本物だとの事だが」と尋ねると、常煒は「を殺した時、鄴にいた者は殆ど殺し尽くされました。生き延びた者もただ溝に伏せていた者ばかりです。どうして璽の在り処を知り得ましょうか。彼らは命を長らえる為ならば、妄言も吐きます。どのような事でも言えましょう。ましてや一個の璽の事ならなおさらです!」と答えた。
  23. ^ 慕容儁はなおも張挙の言葉を信じていたので、傍らに柴を積み上げると(火あぶりの刑を暗示している)、封裕を介して「君はよく考えよ。さもなくば徒に灰になるであろう!」と言わせたが、常煒は顔つきを改めて「石氏は貪暴であります。自ら大軍を率いてこの燕へ攻め込んだ事もありましょう。勝てずに帰ったといえども、併呑の志は無くすことはありませんでした。兵糧を運んで兵器を集め、東北へ運び込んでいたのは、まさか燕への援助物資の筈はないでしょう。魏主が石氏を誅したのは、確かに燕のためではありませんが、主君の親仇が滅んだとき、どのような行動が義に適うといえますか。今、あなた方は彼らに味方して我らを責めておりますが、これはなんとも奇妙なことではないですか!私が聞きますところ、死者の骨肉は土に帰し、精魂は天にのぼるといいます。君の恵を蒙ったからには、速やかに薪を増やして火を放ち、私は天帝のもとへ赴いて上訴しましょう‼」と言い放った。
  24. ^ 慕容儁は「卿は生きるために考えを改める事が無かった。我は州里(同郷)の人を助けたまでだ〈慕容儁は昌黎出身、常煒は広寧出身であり、いずれも幽州に属している)。今、大乱の中にあっても(常煒の)諸子がみなここに至ったのは、天命によるものであろう。天でさえ卿の事を気に懸けているのだから、我は言うまでもない!」と述べた。
  25. ^ 『資治通鑑』では4月の出来事とするが、『十六国春秋』では3月の出来事とする
  26. ^ 「釣」には相手を誘き出すという意味がある。
  27. ^ 南安とも
  28. ^ 『資治通鑑』では3月の出来事とするが、『十六国春秋』では1月の出来事とする
  29. ^ 『資治通鑑』では3月の出来事とするが、『十六国春秋』では4月の出来事とする
  30. ^ 「十六国春秋」では358年10月の出来事とする
  31. ^ 『十六国春秋』では派水にて両軍は交戦したとある
  32. ^ この記述は「資治通鑑」に基づくが、「晋書」・「十六国春秋」によれば、同年4月に慕容覇に段勤討伐を、慕容恪らに冉閔討伐を命じた際に、両軍の後援として慕容儁は既に中山に駐屯している。また「十六国春秋」には、7月に中山ではなく常山に駐屯したと記載がある。
  33. ^ 伝国璽を指す。但し、前述の通り本物は既に東晋に渡っている為、別に作ったものである。
  34. ^ 前述の通り本物は既に東晋に渡っている為、別に作ったものである。
  35. ^ 慕容儁は冀州をまだ北部しか領有していなかった(もしくは統治が安定していなかった)為、北冀州刺史という役職を新たに設置し、常山を治所(州都)としたと思われる。
  36. ^ 「晋書」による。「資治通鑑」には河南の文字は無く、都督秦・雍・益・梁・江・揚・荊・徐・兗・豫十州諸軍事とする
  37. ^ a b 慕容彊とも
  38. ^ 『資治通鑑』では慕容彭とする
  39. ^ 『十六国春秋』では慕容逮とも、慕容逯とも記載される
  40. ^ 『資治通鑑』では慕容咸とする
  41. ^ 「守」とは兼務の意味
  42. ^ 恐らくこの時期には冀州全体に前燕の影響力が及ぶようになり、慕容覇を冀州刺史に改めて任じ、冀州本来の治所(州都)である信都へ移らせたと思われる。
  43. ^ 『資治通鑑』では8月の出来事とするが、『十六国春秋』では7月の出来事とする
  44. ^ 355年11月に段龕征伐を行っているが、今回の徴兵がそれを企図していたかは不明
  45. ^ 『資治通鑑』では10月の出来事とするが、『十六国春秋』では9月の出来事とする
  46. ^ 「夫名尊禮重,先王之制。冠冕之式,代或不同。漢以蕭、曹之功,有殊群辟,故剣履上殿,入朝不趨。世無其功,則禮宜闕也。至於東宮,體此為儀,魏、晋因循,制不納舄。今皇儲過謙,準同百僚,禮卑逼下,有違朝式。太子有統天之重,而與諸王斉冠遠遊,非所以辨章貴賤也。祭饗朝慶,宜正服袞衣九文,冠冕九旒。又仲冬長至,太陰数終,黄鐘産氣,綿微於下,此月閉關息旅,後不省方。《禮記》曰:「是月也,事欲静,君子斉戒去聲色」。唯《周官》有天子之南郊従八能之説。或以有事至霊,非朝饗之節,故有楽作之理。王者慎微,禮従其重。前来二至闕鼓,不宜有設,今之鏗鏘,蓋以常儀。二至之禮、事殊餘節,猥動金聲,驚越神気,施之宣養,實為未盡。又朝服雖是古禮,絳褠始于秦、漢,迄於今代,遂相仍準。朔望正旦,乃具袞舄。禮,諸侯旅見天子,不得終事者三,雨沾服失容,其在一焉。今或朝日天雨,未有定儀。禮貴適時,不在過恭。近以地湿不得納舄,而以袞襈改履。案言稱朝服,所以服之而朝,一體之間,上下二制,或廢或存,實乖禮意。大燕受命,侔蹤虞、夏,諸所施行,宜損益定之,以為皇代永制」
  47. ^ 「其剣不趨,事下太常参議。太子服袞冕,冠九旒,超級逼上,未可行也。冠服何容一施一廢,皆可詳定。《周禮》:冠冕體制,君臣略同,中世以來,亦無常體。今特製燕平上冠,悉賜廷尉以下,使瞻冠思事,刑断詳平。諸公冠悉顔裹屈竹,錦纏作公字,以代梁處施之金琪。令僕尚書瑱而已,中秘監令別施珠瑱。庶能敬慎威儀,示民軌則」
  48. ^ 「大燕雖革命創制,至於朝廷銓謨,亦多因循魏、晋,唯祖父不殮葬者,獨不聽官身清朝,斯誠王教之首,不刊之式。然禮貴適時,世或損益,是以高祖制三章之法,而秦人安之。自頃中州喪亂,連兵積年,或遇傾城之敗,覆軍之禍,坑師沈卒,往往而然,孤孫煢子,十室而九。兼三方岳峙,父子異邦,存亡吉凶,杳成天外。或便假一時,或依嬴博之制,孝子糜身無補,順孫心喪靡及,雖招魂虚葬以叙罔極之情,又禮無招葬之文,令不此載。若斯之流,抱琳琅而無申,懐英才而不歯,誠可痛也。恐非明揚側陋,務盡時珍之道。呉起、二陳之疇,終将無所展其才幹。漢祖何由免于平城之圍?郅支之首何以懸于漢關?謹案《戊辰詔書》,蕩清瑕穢,與天下更始,以明惟新之慶。五六年間,尋相違伐,於則天之體,臣竊未安」
  49. ^ 「煒宿德碩儒,練明刑法,覽其所陳,良足采也。今六合未寧,喪亂未已,又正當搜奇拔異之秋,未可才行兼舉,且除此條,聽大同更議。」
  50. ^ 実際に婚姻を行ったかどうかは記録がなく不明である
  51. ^ 「資治通鑑」胡三省注によると、漁陽烏桓の大人である庫傉官の種族の末裔だという
  52. ^ 『十六国春秋』では孫原とする
  53. ^ 『資治通鑑』では3月の出来事とするが、『十六国春秋』では2月の出来事とする
  54. ^ 『資治通鑑』では5月の出来事とするが、『十六国春秋』では3月の出来事とする
  55. ^ 『資治通鑑』では354年3月の出来事とするが、『十六国春秋』では353年3月の出来事とする
  56. ^ 『資治通鑑』では10月の出来事とするが、『十六国春秋』では11月の出来事とする
  57. ^ 『資治通鑑』では12月の出来事とするが、『十六国春秋』では11月の出来事とする
  58. ^ 「晋書」には濟水の南とある
  59. ^ 大将軍とも
  60. ^ 「十六国春秋」による。「晋書」「資治通鑑」にはこのような記載はない。
  61. ^ 『晋書』『十六国春秋』では勝利を収め、高昌は東陵(邵陵とも)へ逃走している。また、高昌の配下はみな降伏している。
  62. ^ 『十六国春秋』では130とする
  63. ^ 『資治通鑑』に基づく。『十六国春秋』では357年10月と358年10月の2回に渡って諸葛攸は東郡へ攻め入っており、2回とも慕容恪に撃退されている。
  64. ^ 詳細な位置は不明だが、「資治通鑑」胡三省注によると、魏郡に存在したという
  65. ^ 『十六国春秋』『晋書』では、358年10月の諸葛攸撃退直後の出来事とするが、『資治通鑑』では359年10月の出来事とする
  66. ^ 永嘉の乱の際、裴氏の一族が防衛のために建てた為、裴氏堡という(堡とは砦の事)。
  67. ^ 『十六国春秋』では木穀禾とする
  68. ^ 『晋書』では享年42でするが、『十六国春秋』では享年53とする
  69. ^ 『晋書』では在位11年とするが、『十六国春秋』では在位12年とする
  70. ^ 『水経注』によれば後宮の愛妾であるという
  71. ^ 東明観とも
  72. ^ 同年11月に庫傉官偉が汶山公に封じられているが、時期が合わない。
  73. ^ 黄紙は皇帝に向けて書く際に用いられる。
  74. ^ 当時はまだ帝位を称してはいなかった


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