慕容儁の継位
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346年1月、世子の慕容儁・広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根と共に1万7千の騎兵を率い、夫余の征伐に向かった。慕容儁は陣中より指示を行うのみであり、戦場での指揮の一切は慕容恪に委ねられた。慕容恪は矢石に身を晒しながら敵の前鋒軍を打ち破り、向かう所敵無しであった。そして勢いのままに夫余を攻略すると、玄王と部落5万人余りを捕らえてから軍を帰還させた。 348年9月、慕容皝が没し、世子の慕容儁が王位を継いだ。慕容皝は臨終の際、慕容儁へ向けて「今、中原は平定されておらず、世務(この世の務め。ここでは中華平定を指す)を図る為には、賢傑(才知が傑出している事)なる人物の助けを得なければならぬ。恪(慕容恪)は智勇共に申し分なく、その才覚は重任に堪え得るものだ。汝はこれに委ね、我が志を果たすのだ」と遺言を残した。慕容儁はその言葉に従って慕容恪を重用し、国家の大事を委ねるようになった。慕容恪もまたこの期待に応え、幾度も大功を挙げていく事となる。
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