慕容仁の自立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
同月、軍諮祭酒封奕を遼東へ派遣し、遼東の地が慕容仁の影響を受けて反乱を起こさないよう慰撫に当たらせた。さらには玄菟郡太守高詡・庶弟の建武将軍慕容幼・慕容稚・広威将軍慕容軍・寧遠将軍慕容汗・司馬冬寿らに5千の兵を与えて慕容仁討伐を命じ、共に平郭へ侵攻させた。だが、討伐軍は汶城の北において慕容仁軍に大敗を喫し、慕容幼・慕容稚・慕容軍は捕らえられてしまった。冬寿はかつて慕容仁の司馬として仕えていたので、彼もまた降伏して慕容仁に帰順した。 また遼東の地ではかつて大司農であった孫機や襄平県令王永らが遼東城(襄平県にあり遼東の中心地である)ごと反旗を翻し、慕容仁に呼応した。東夷校尉封抽・護軍乙逸・遼東相韓矯らは城を脱出して逃走を図り、敗走中であった高詡と合流して共に撤退した。遼東に向かっていた封奕も孫機らの反乱により道路が封鎖されて進む事が出来ず、敗走中であった慕容汗と合流すると、止む無く軍を退いた。 これにより慕容仁は平郭に加えて遼東の殆どを領有するようになり、慕容皝と遼西・遼東の覇権を争っていた段部や宇文部は慕容仁に味方した。さらには、元々慕容皝に従属していた鮮卑の諸部族もみな慕容皝を見限り、慕容仁側に付いてしまった。 当時、連年に渡って災厄や戦役が続いていた事で民百姓は困窮していたが、慕容皝が即位して以降は妥協する事なく法を厳格に運用するようになったので、大いに人心は動揺した。その為、慕容仁が反乱を起こす以前に主簿皇甫真は、租税を減らし労役を軽減させて民百姓へ休息を与えるべきであると慕容皝へ訴えたが、慕容皝はこれを聞き入れず、さらに彼を疎ましく思い罷免してしまった。だが、ここに至って鮮卑の諸部族がみな離反してしまうと、慕容皝はかつての皇甫真の忠告を思い出し、これに耳を傾けなかった事を後悔すると、皇甫真を復職させて平州別駕に任じた。
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