慕容宝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:44 UTC 版)
即位にあたって慕容宝は後継問題に悩まされた。慕容会は器や人望があって慕容垂に愛されていたため、慕容垂は太子にするよう遺言していたが、慕容宝は少子の慕容策を愛していた。慕容盛も慕容麟と共に慕容策を勧め、同年冬に慕容宝はその通りに慕容策を太子に立てた。慕容盛と慕容会は王に封ぜられたが、慕容会は太子になれなかったことに怒って反乱を考えた。同年、北魏が後燕の并州を奪って都中山を包囲した。397年春に慕容麟が反乱したこともあって、慕容宝は中山を棄てて龍城に奔走した。慕容盛はこの時共に龍城から南進していた慕容会と合流した。しかし同年、慕容会は叔父の慕容隆を殺し、慕容農に重傷を負わせた。のちに慕容会は反乱するが殺される。 398年、慕容盛と慕容農が切に諌めたにも関わらず、慕容宝は慕容盛に龍城の留守を任せて、北魏に奪われた領土の奪回に出兵した。道中で疲れた軍が逆らった(段速骨の乱)ので慕容宝は龍城に帰還して守った。しかし慕容農が降伏して龍城が陥落したため、慕容宝と慕容盛は薊城に奔走せざるを得なかった。蘭汗が龍城を取り戻すと慕容宝を迎え入れようと言った。これを信用しなかった慕容盛は慕容宝に南進して慕容徳と合流することを助言した。これは慕容徳が鄴を守っていることが前提の案であったが、慕容徳は既に滑台で後燕から独立し、南燕を建国していた。慕容宝と慕容盛は黎陽でこれに気づき、恐れて北に帰った。慕容盛は北魏に占拠された冀州の豪傑と結んで機会を伺おうとしたが、慕容宝は蘭汗の忠誠心を信じて龍城に帰還した。慕容盛は固く諌めたが、慕容宝が聞き入れなかったので身を隠した。 慕容宝が龍城の外邸に入ると、すぐさま蘭汗の弟の蘭加難が軍を率いて慕容宝を殺した。蘭汗は慕容策など慕容氏の皇族を大勢殺し、昌黎王を自称して後燕を継承するとした。
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