蕨郷および蕨宿の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:08 UTC 版)
文献上、地名「わらび」の初出は観応3年(1352年)6月29日に表された『渋川直頼譲状写』(賀上家文書)に見える、「武蔵国蕨郷上下」である。地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別される。「藁火」説では、源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名した、などといわれる。「蕨」説には、近隣の戸田郷 や川口郷 にも見られる「青木」「笹目」「美女木(びじょぎ)」 などといった植物由来地名と同様、蕨(ワラビ)が多く自生する地であったことに基づく命名とするもの、僧・慈鎮(じちん)の歌「武蔵野の 草葉に勝る早蕨(さ-わらび)を 実(げ)に 紫の塵かとぞ見る」をもって「蕨」としたと見るもの、などがある(「蕨市#歴史」も参照)。 平安時代末期に金子家忠の一族が保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)を落ち延びて蕨本村(法華田〈ほっけだ〉、現・錦町5丁目付近)に住み着き、蕨郷の開発に着手したと伝えられる。 戦国時代には蕨城(足利氏一族・渋川氏の居城)があり、市も開かれていたため、宿場として成立する基礎があった。
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