若年王の誕生と呂不韋の権勢とは? わかりやすく解説

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若年王の誕生と呂不韋の権勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:46 UTC 版)

始皇帝」の記事における「若年王の誕生と呂不韋の権勢」の解説

荘襄王呂不韋周辺諸国との戦い通じて秦を強勢なものとした。しかし、荘襄王3年(前247年5月荘襄王在位3年という短い期間で死去し13歳の政が王位継いだ。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間政治任せ、特に呂不韋相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治執行した秦王政6年紀元前241年)、・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍函谷関迎え撃ち、これを撃退した函谷関の戦い)。このとき、全軍総指揮を執ったのは、この時点権力握っていた呂不韋考えられている。 そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威得て多く食客養い秦王政8年紀元前239年)には『呂氏春秋』の編纂完了した。 だが、呂不韋はひとつ問題抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋自分代わり探し適任の男の嫪毐見つけたあごひげと眉を抜き宦官成りすまし後宮入った嫪毐お気に入りとなり、侯爵与えられた。やがて太后妊娠した人目を避けるため旧都雍に移ったのち、嫪毐太后の間には二人男児生まれた秦王政9年(前238年)、政が22歳時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎えしきたり従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐宦官ではないという告発があった と言い同書「始皇本紀」では嫪毐反乱起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子王位就けよう考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐若王の父になると公言したことが伝わったともいう。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐太后印章入手し軍隊動かしクーデター企てた失敗したとも言う。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された。 事件背景調査され呂不韋関与が明らかとなった。しかし過去功績考慮され、また弁護する者も現れ相国罷免封地河南での蟄居命じられたのは翌年となった。だが呂不韋名声依然高く数多く客人訪れたという。 秦王政12年(前235年)、政は呂不韋書状送った。 君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!秦に対し一体何の功績以って河南十万戸の領地与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。 — 史記呂不韋列伝14 流刑の地・蜀へ行ってもやがて死を賜る悟った呂不韋は、服毒自殺した。吉川忠夫嫪毐事件の裏にあった呂不韋関与秦王政にとって予想外だった推測した が、陳舜臣青年になった政がうとましい呂不韋除こう最初から考えていた可能性示唆し事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した。秦王政呂不韋葬儀哭泣した者も処分した

※この「若年王の誕生と呂不韋の権勢」の解説は、「始皇帝」の解説の一部です。
「若年王の誕生と呂不韋の権勢」を含む「始皇帝」の記事については、「始皇帝」の概要を参照ください。

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