若年王の誕生と呂不韋の権勢
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「始皇帝」の記事における「若年王の誕生と呂不韋の権勢」の解説
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した。 秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている。 そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年(紀元前239年)には『呂氏春秋』の編纂を完了した。 だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の嫪毐を見つけた。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都雍に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた。 秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された。 事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。 秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った。 君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。 — 史記「呂不韋列伝」14 流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した。
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