能登畠山家の時代とは? わかりやすく解説

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能登畠山家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:41 UTC 版)

長連龍」の記事における「能登畠山家の時代」の解説

天文15年1546年8月15日能登畠山家家臣長続連三男として生まれる。幼名萬松。初名を好連といった。 臨済宗門に入り能登国熊木定寺の僧となり、宗顒を称して孝恩寺住職になった以後僧形ありながらも「孝恩寺」を通称として戦場出た永禄12年1569年11月温井景隆三宅長盛帰参畠山義隆八代俊盛の3千貫土地をあてがわせたのを不満にもって、八代親子が3千名の兵で乱を起こした際、孝恩寺温井三宅松波常重は4千名をもって塚の合戦戦って八代親子敗死させた。 天正5年1577年5月上杉謙信侵攻受けた際、7月18日平子和泉轡田肥後唐人式部板倉伝右衛門穴水城救援に向かうと、孝恩寺法衣をきて水軍率いて迎撃し、乙ヶ崎合戦大勝し首級70取った。閏7月謙信能登に軍を進めたために穴水城包囲解いた長続連は、自身事実上城主たる畠山家居城七尾城籠城して上杉軍取り囲まれた。23日、幼い畠山春王丸病死して、守兵士気下がったので、長綱連は弟孝恩寺密かに海路より織田信長のもとへ援軍要請に赴かせた。ところが26日に義春の叔父二本松義有も病死し畠山家宗室絶えた長綱連一揆勢を扇動して上杉背後を付かせようとしたが失敗し9月になると七尾城陥落避けがたい状況になった謙信は、上条政繁長尾与次郎島津淡路使者として遊佐続光内応させた。遊佐温井三宅兄弟と謀って、9月15日、続連、綱連、則直、連常、連盛ら長一族14人をことごとく謀殺した。これによって(綱連の末子末丸を除き孝恩寺一族の中で生き残ることになった。 「七尾城の戦い」も参照

※この「能登畠山家の時代」の解説は、「長連龍」の解説の一部です。
「能登畠山家の時代」を含む「長連龍」の記事については、「長連龍」の概要を参照ください。

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